渡邊誠『王朝貴族と外交 国際社会のなかの平安日本』p189-190「恥」の観念 そこで注目したい第二の点が、医師の派遣を見送った根本的な理由としての「恥」の観念である。ここで言う「恥」の観念とは、森公章氏が指摘した平安貴族の自己意識であり、日本が中国(異国)に匹敵または優越するという意識と表裏をなすもので、日本の学芸・技能が劣っていることが暴露されれば「日本の恥」になるという観念のことである(「平安貴族の国際認識に...
「恥」の観念
そこで注目したい第二の点が、医師の派遣を見送った根本的な理由としての「恥」の観念である。ここで言う「恥」の観念とは、森公章氏が指摘した平安貴族の自己意識であり、日本が中国(異国)に匹敵または優越するという意識と表裏をなすもので、日本の学芸・技能が劣っていることが暴露されれば「日本の恥」になるという観念のことである(「平安貴族の国際認識についての一考察」『古代日本の対外認識と通交』吉川弘文館、一九九八年)。
その観念を森公章氏は日本が中国と対等または凌駕するという意識があってこそ生まれるものと論じたが、高麗医師派遣要請事件の審議過程にみられた貴族の意識はむしろ逆であろう。高麗に医師を派遣して治療に効果がなければ「恥」になる、というのは自国の技能を信頼しきれない後ろ向きな意識である。成功を確信できず失敗を恐れて派遣を躊躇する彼らの心理は、深層に眠る自信のなさと、それを見透かされて体面を傷つけられることに怯える臆病さとを基底としており、それが相手の視線を過度に意識する姿勢となって表れたものと言える。そして、その裏返しとして、不安感を覆い隠すべく自ら関係を閉ざしながら自己の優越性は必要以上に誇示される。高麗に向けた返牒ではいたずらに尊大な態度をとって虚勢を張るのである。この返牒を文面通りに受け止めて、平安貴族の高麗に対する排外的な蔑視観の発露とみなしてしまっては、事の本質を見誤ることになるだろう。
今回の交渉は、このような貴族の自意識によって拒絶された。むろん、契丹と宋の狭間にある高麗の政治的な思惑など知る由もなく、考慮の外であった。当時の日本が国際政治の場から遊離しているからこそのことである。
本書中では「平安貴族の自己意識」と規定されているが、これは広く現代日本人にも、どこか思い当たるフシがあるのではないか?という気がしたので、メモランダムとして記録しておく。
冊府元亀の倭王讃の上表文に対する最近の論調とかご存じでしょうか。
中国哲学の湯浅さんの論文を添付URLにつけました。
これってどう評価されたのかご存じでしょうか。