「魏志倭人伝」への旅 ブログ版

邪馬台国研究の基本文献「魏志倭人伝」とその関連史書を探求する

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2023-09-17 (Sun)

「恥」の観念

「恥」の観念

渡邊誠『王朝貴族と外交 国際社会のなかの平安日本』p189-190「恥」の観念 そこで注目したい第二の点が、医師の派遣を見送った根本的な理由としての「恥」の観念である。ここで言う「恥」の観念とは、森公章氏が指摘した平安貴族の自己意識であり、日本が中国(異国)に匹敵または優越するという意識と表裏をなすもので、日本の学芸・技能が劣っていることが暴露されれば「日本の恥」になるという観念のことである(「平安貴族の国際認識に...

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渡邊誠『王朝貴族と外交 国際社会のなかの平安日本』p189-190

「恥」の観念
 そこで注目したい第二の点が、医師の派遣を見送った根本的な理由としての「恥」の観念である。ここで言う「恥」の観念とは、森公章氏が指摘した平安貴族の自己意識であり、日本が中国(異国)に匹敵または優越するという意識と表裏をなすもので、日本の学芸・技能が劣っていることが暴露されれば「日本の恥」になるという観念のことである(「平安貴族の国際認識についての一考察」『古代日本の対外認識と通交』吉川弘文館、一九九八年)。
 
 その観念を森公章氏は日本が中国と対等または凌駕するという意識があってこそ生まれるものと論じたが、高麗医師派遣要請事件の審議過程にみられた貴族の意識はむしろ逆であろう。高麗に医師を派遣して治療に効果がなければ「恥」になる、というのは自国の技能を信頼しきれない後ろ向きな意識である。成功を確信できず失敗を恐れて派遣を躊躇する彼らの心理は、深層に眠る自信のなさと、それを見透かされて体面を傷つけられることに怯える臆病さとを基底としており、それが相手の視線を過度に意識する姿勢となって表れたものと言える。そして、その裏返しとして、不安感を覆い隠すべく自ら関係を閉ざしながら自己の優越性は必要以上に誇示される。高麗に向けた返牒ではいたずらに尊大な態度をとって虚勢を張るのである。この返牒を文面通りに受け止めて、平安貴族の高麗に対する排外的な蔑視観の発露とみなしてしまっては、事の本質を見誤ることになるだろう。
 
 今回の交渉は、このような貴族の自意識によって拒絶された。むろん、契丹と宋の狭間にある高麗の政治的な思惑など知る由もなく、考慮の外であった。当時の日本が国際政治の場から遊離しているからこそのことである。

本書中では「平安貴族の自己意識」と規定されているが、これは広く現代日本人にも、どこか思い当たるフシがあるのではないか?という気がしたので、メモランダムとして記録しておく。
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2023-08-10 (Thu)

榎一雄博士の言う「或る一文字」

榎一雄博士の言う「或る一文字」

榎一雄「『魏志』「倭人伝」とその周辺 連載第七回 ―テキストを検討する―」『季刊邪馬台国21号 1984年秋号』p115 仮りに或る一文字について疑問が生じた場合を考えてみよう。もし他にそれと違った文字が書かれているテキストがあれば、それを手がかりに詳しく研究を進めて行くことが出来るが、他のどのテキストを見ても、おなじ版木で印刷された千遍一律のものであれば、どうにも手の施しようがないのである。印刷によるテキストの固...

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榎一雄「『魏志』「倭人伝」とその周辺 連載第七回 ―テキストを検討する―」『季刊邪馬台国21号 1984年秋号』p115

 仮りに或る一文字について疑問が生じた場合を考えてみよう。もし他にそれと違った文字が書かれているテキストがあれば、それを手がかりに詳しく研究を進めて行くことが出来るが、他のどのテキストを見ても、おなじ版木で印刷された千遍一律のものであれば、どうにも手の施しようがないのである。印刷によるテキストの固定化が研究の進歩を妨げることは、この一例からも判るであろう。

 印刷の普及に伴うもう一つの障害は、最初の印刷の底本に選ばれたテキストがそもそも如何なる系統のものであるのか明らかでないことが大部分であることである。その印刷本が次にどうなったかは判る場合が少ないが、最初の印刷本が何から出ているのかは、判らない場合が殆どすべてなのである。このことが或る版本を研究する者を非常に困らしめるのである。

誠可謂一字千金矣._01
hy注)「どうなったかは判る場合が少ないが」は、以後の文脈から或いは「どうなったかは判る場合が少なくないが」の誤かも知れない。

冊府元亀の倭王讃上表文 * by 白石南花
ハイエナさん、質問があります。
冊府元亀の倭王讃の上表文に対する最近の論調とかご存じでしょうか。
中国哲学の湯浅さんの論文を添付URLにつけました。
これってどう評価されたのかご存じでしょうか。

Re: 白石南花 様へ * by -
ご無沙汰しております。
>冊府元亀の倭王讃の上表文に対する最近の論調とか
いえいえ、全く存じません。
>中国哲学の湯浅さんの論文を添付URLにつけました。
>これってどう評価されたのかご存じでしょうか。

「どう評価されたのか」については、こちらも存じませんが、興味深いご案内ですので、昼食後にでも拝読させていただきたいと思います。

取り急ぎ御礼まで。

Re: 白石南花 様へ * by -
取り急ぎ拝読しました。p122

これらを綜合して考えられることは、(一)「宋書」に引く倭王武の上表文の前半は、「冊府元亀」が引いているように、倭王讃の上表文であり

については失考だと思いますね。

1.三通と言われる『通典』『通志』『文献通考』にはいずれも武の上表文を順帝昇明二年の記事として、全体を比較的よく保存しています。
2.『冊府元亀』は項目ごとに分類する際の〝切り貼り〟が散見されますので、記述内容を真に受けるのは危険ではないかと思います。

前述のごとく学会の動向など全く承知しておりませんが、上述ごとき指摘はすでになされているものと信じます。

取り急ぎ一読した上での所感を書かせていただきました。

Re: hyenanopapa 様へ * by 白石南花
ハイエナさん有難うございます。

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2023-08-07 (Mon)

40年前のノートに以下のような簡略年表が

40年前のノートに以下のような簡略年表が

何かストーリーでも組み立ててみようと思ったのか?記憶が定かではない。ノート 82/3/17○ある米人 兵器商人南北戦争 1861-65(civil war)1867 (慶応3)大政奉還    12/9 王政復古の大号令1868 明治維新 鳥羽伏見の戦い1869 箱館戦争終わる1870 イタリー統一1871 ドイツ統一1873 西郷下野1877 西南の役1894 日清戦争1898~1900 義和団事件1904~5 日露戦争1905 ロシア血の日曜日(朝鮮との絡み)...

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何かストーリーでも組み立ててみようと思ったのか?記憶が定かではない。

ノート 82/3/17
○ある米人 兵器商人
南北戦争 1861-65
(civil war)
1867 (慶応3)大政奉還
    12/9 王政復古の大号令
1868 明治維新 鳥羽伏見の戦い
1869 箱館戦争終わる
1870 イタリー統一
1871 ドイツ統一
1873 西郷下野
1877 西南の役
1894 日清戦争
1898~1900 義和団事件
1904~5 日露戦争
1905 ロシア血の日曜日
(朝鮮との絡み)


2023-08-07 (Mon)

ChatAIに「九州年号と九州王朝との関係を教えてください。」と聞いてみたら?

ChatAIに「九州年号と九州王朝との関係を教えてください。」と聞いてみたら?

ChatGPT申し訳ありませんが、私の知識は2021年9月までのものであり、それ以降の情報は持っていません。したがって、"九州年号"や"九州王朝"という具体的な事象や団体についての情報は提供できません。"九州年号"が具体的にどのようなものか、また"九州王朝"がどのような王朝かについて、もう少し情報を提供していただければ、できる限りお手伝いいたします。それにより、関連する歴史や出来事について調査し、より詳細な情報を提供...

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ChatGPT

申し訳ありませんが、私の知識は2021年9月までのものであり、それ以降の情報は持っていません。したがって、"九州年号"や"九州王朝"という具体的な事象や団体についての情報は提供できません。

"九州年号"が具体的にどのようなものか、また"九州王朝"がどのような王朝かについて、もう少し情報を提供していただければ、できる限りお手伝いいたします。それにより、関連する歴史や出来事について調査し、より詳細な情報を提供できるかもしれません。どうぞお知らせください。


との回答。

続いてGoogleBard

九州年号とは、古代日本に存在したとされる九州王朝が使用したとされる年号です。九州王朝は、5世紀から7世紀にかけて九州を支配していた王朝であるとされています。九州年号は、5世紀から7世紀にかけて使用されたとされており、その数は200件以上にも上ります。九州年号は、漢字で表記されていますが、その意味はほとんどが不明です。九州年号は、九州王朝の存在を示す重要な証拠の一つであるとされています。

九州王朝は、古代日本史の謎の一つです。九州年号は、九州王朝の存在を示す重要な証拠の一つであるとされていますが、九州王朝の存在を直接的に証明するものではありません。九州王朝の存在を証明するためには、より多くの史料の解明が必要です。


BingChat

九州年号と九州王朝についてですね。九州王朝説は、7世紀末まで九州に日本を代表する王朝があり、太宰府がその首都であったとする説です¹. 九州周辺の地形図には、九州王朝の存在を示すような年号群が記載されていることがあります⁴. ただし、この説には論争があります。古田武彦氏は、邪馬台国から5世紀の「倭の五王」までを九州に比定する論者もいるとし、その後、九州に倭国が成立したが、天智天皇2年(663年)「白村江の戦い」の敗北により滅亡に向かったとしています。ただし、2021年現在、井上光貞氏、榎一雄氏、山尾幸久氏など複数の東洋史・日本史学者等は古田説を批判しており、主要な百科事典や邪馬台国論争の研究書には記載されていないそうです¹⁴。

ソース: Bing との会話 2023/8/7
(1) 九州王朝説 - Wikipedia. https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%9D%E5%B7%9E%E7%8E%8B%E6%9C%9D%E8%AA%AC.
(2) 九州王朝(倭国) | 古賀達也の洛中洛外日記. http://koganikki.furutasigaku.jp/koganikki/category/wi-empire-kyushu-dynasty/.
(3) 006 九州倭政権が制定していた年号 ―教科書から抹殺された .... https://ameblo.jp/kodaishi-omoroide/entry-12000338323.html.
(4) 「九州年号」と「倭国年号」(古田史学会報を見て) - gooブログ. https://blog.goo.ne.jp/james_mac/e/8df92a8357d32e9e4f746fe96af8f32b.



2023-07-10 (Mon)

『日本紀私記』 問耶馬䑓耶靡堆耶摩堆之号若有各意乎

『日本紀私記』 問耶馬䑓耶靡堆耶摩堆之号若有各意乎

新日本古典籍総合データベース『日本紀私記』問耶馬䑓耶靡堆耶摩堆之号若有各意乎邪を耶とする点を措けば、 耶馬䑓・・・『後漢書』の邪馬臺(䑓は臺の異体字)耶靡堆・・・『隋書』の邪靡堆耶摩堆・・・『北史』の邪馬臺。或いは『後漢書』李賢注の当初の姿であろう邪摩堆(801年成立の『通典』によって窺える)『続日本紀』に【神護景雲三年(769)十月甲辰(10)。従五位上奈癸王為正親正。」大宰府言。此府人物殷繁。天下之一都会也。子弟之徒...

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新日本古典籍総合データベース『日本紀私記

問耶馬䑓耶靡堆耶摩堆之号若有各意乎

邪を耶とする点を措けば、
耶馬䑓・・・『後漢書』の邪馬臺(䑓は臺の異体字)
耶靡堆・・・『隋書』の邪靡堆
耶摩堆・・・『北史』の邪馬臺。或いは『後漢書』李賢注の当初の姿であろう邪摩堆(801年成立の『通典』によって窺える)

続日本紀』に【神護景雲三年(769)十月甲辰(10)。従五位上奈癸王為正親正。」大宰府言。此府人物殷繁。天下之一都会也。子弟之徒。学者稍衆。而府庫但蓄五経。未有三史正本。渉猟之人。其道不広。伏乞。列代諸史。各給一本。伝習管内。以興学業。詔賜史記。漢書。後漢書。三国志。晋書各一部。」】と見えるように、8世紀中には『三国志』が本邦へもたらされていた。なのに日本紀私記』では日本の国号として「邪馬壹」なる表記を採り上げていない。

日本紀私記』が万般の信頼おけるものか否か愚生の確言出来る限りではないが、もしそれが言えるのであれば、本邦渡来の写本『三国志』魏志倭人伝には「邪馬壹」なる表記の無かったことが明白になるのではなかろうか。

Wikipediaより日本紀私記

『日本書紀私記』(にほんしょきしき)は、平安時代に行われた『日本書紀』の講書の内容をまとめた書物である。『日本紀私記』(にほんぎしき)ともいう。
概要

『日本書紀』については、平安時代に、養老5年(721年)、弘仁3年(812年)、承和10年(843年)、元慶2年(878年)、延喜4年(904年)、承平6年(936年)、康保2年(965年)の7回の講書「日本紀講筵」が行われたとされる[1]。

『日本書紀私記』は、これらの講書の記録であり、種々のものが作成されたと考えられているが、現存するものとしては甲乙丙丁の四種が知られている。甲乙丙本は水戸の彰考館に伝えられたもので、彰考館本と呼ばれる。また、丁本は六人部氏本と呼ばれる。このうちどの本がどの年代の講書の私記であるのかは明らかでないが、甲本は弘仁、丁本は承平の講書の私記であると考えられており、甲本は『弘仁私記』とも呼ばれる[1]。

鎌倉時代に成立した『釈日本紀』にも、元慶や承平の私記が引用されており、『日本書紀私記』は『日本書紀』を解釈する上で重要な史料である。

[1] 『新訂増補 國史大系 第8卷 日本書紀私記・釋日本紀・日本逸史』、黒板勝美、吉川弘文館刊

2023/7/17追記)朝日新聞学芸部編『邪馬台国』昭和51年9月25日第1刷発行p190からの「やまと伝説」の中で、この『日本書紀私記』が採り上げられており、2件の問答の現代語訳が掲げてある。

2023-07-06 (Thu)

笠井新也「卑弥呼の冢墓と箸墓」末尾

笠井新也「卑弥呼の冢墓と箸墓」末尾

耶馬臺国が大和である所以は、余輩が既に別篇に於いて論定した所である。而も今またこゝに別箇の立場からする卑弥呼論の成立によって、これが一層の確実性を加へたことは、否定出来ない事実であらう。 思ふに魏志倭人伝に於ける耶馬臺国と卑弥呼との関係は、互に密接不離の関係にあり、これが研究は両々相俟ち、相援けて、始めて完全な解決に到達するものである。其の一方が解決されたかに見えても、他方が解決しない以上、それは...

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耶馬臺国が大和である所以は、余輩が既に別篇に於いて論定した所である。而も今またこゝに別箇の立場からする卑弥呼論の成立によって、これが一層の確実性を加へたことは、否定出来ない事実であらう。
 思ふに魏志倭人伝に於ける耶馬臺国と卑弥呼との関係は、互に密接不離の関係にあり、これが研究は両々相俟ち、相援けて、始めて完全な解決に到達するものである。其の一方が解決されたかに見えても、他方が解決しない以上、それは真の解決とは云ひ難いのである。譬へば錠と鍵との関係の如く、両者相契合して始めてそれぞれ正しい錠であり、正しい鍵であることが決定されるのである。されば彼の卑弥呼論を伴はない耶馬臺国九州説の如きは、仮令有力な根拠があるとしても、畢竟永遠の仮定説に止まるのではなからうか。況やその根拠の極めて薄弱であるに於いてをやである。(完)
(『考古学雑誌』三二―七 昭和十七年七月)

佐伯有清編『邪馬台国基本論文集Ⅰ』p427-438 創元社/1981年7月20日第一版第一刷発行。

稿中、「径八寸の鏡」「径一尺の団扇」についても言及。今から実に80年余前にかかる明晰なる論考が出されていることに鑑みれば、現今の邪馬台国論の大半にどれほどの読むべき価値を見いだせるのか?甚だ疑問に思わざるを得ない。
2023-07-05 (Wed)

遣唐使停止後の大陸交易について

遣唐使停止後の大陸交易について

竹内理三「大宰府と大陸」『古代アジアと九州』所収p341-343 一一〇二(康和四)年、第一回の大宰権帥の任をおえて京都に上洛した大江匡房は、任期中に道里正しくとった物と、非道な方法でとった物とを別々の船にして上せたところ、道理の船は沈んで、非道の船は無事に到着したので、匡房は、「世ははやはやすゑになりたり、人いたく正直なるましき也」と言ったという(『古今著聞集』二)。不正を当然とする風潮を歎いた寓話であろう...

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竹内理三「大宰府と大陸」『古代アジアと九州』所収p341-343

 一一〇二(康和四)年、第一回の大宰権帥の任をおえて京都に上洛した大江匡房は、任期中に道里正しくとった物と、非道な方法でとった物とを別々の船にして上せたところ、道理の船は沈んで、非道の船は無事に到着したので、匡房は、「世ははやはやすゑになりたり、人いたく正直なるましき也」と言ったという(『古今著聞集』二)。不正を当然とする風潮を歎いた寓話であろう。
 
 こうした官人の腐敗は、大宰府機能そのものの変化によっても促がされたと考えられる。前章第三節の表で示したように、大宰府の対外機能を果すべき外国使節の来航は、ほぼ九世紀前半で終った。職員令の規定する大宰府の外交的機能は、同時に終る筈である。事実、八七七(元慶元)年、大宰府から、蕃客・遣唐使留置返上等に充てる貢綿一一五二屯が空しく庫底に積まれて腐敗の恐れがあるので、砂金五七二両にかえて永貯としたいと申請して許されている(『三代実録』)のは、対外費用を支出する機会が予想されなくなったことを大宰府も朝廷もみとめたことを物語る。
 
 しかし、杜絶えた外国使節に代って、唐・新羅の商人が、活発に博多津に入港するようになったので、外蕃帰化の仕事は、却って多忙になった。大宰府鴻臚館は、これら外商を収容し、貿易をさせる場所に用いられることとなった。九世紀になって、唐や新羅の商船の来航が盛んになったのは、遠く西アジア・アフリカの大食国商人の南海への進出から促がされた世界的情勢の一環であった。八一三(弘仁四)年対馬嶋の史生一人を廃して、新羅訳語〔おさご〕(新羅語通訳)一人を置かんことが大宰府から申請されたが、それは新羅の船が対馬に来著しても、言語不通のため、不測の殺害事件が起らぬようにするためであった(『類聚三代格』五)。また八四二(承和九)年大宰大弐藤原衛は、新羅国は、商売に事よせて、国の様子をさぐりに来るから、一切その入境を禁止したいと申請したのに対し、中央では、外蕃の入境を一切禁ずるのは、不仁であるから、商賈の輩が来たときには、民間と貿易させ、終ったならば速かに放却せよ、と指示している(『続日本後紀』)。これは新羅商人の活発化に対策を定める必要があったことを示す。この頃、朝鮮半島の莞島に根拠地をおいて、北九州や山東半島に部下の商人をおいて、日本・朝鮮・唐の三国にまたがって手びろく貿易を行なっていた新羅貿易王に張宝高なる者があった(『古代の日本』3)。
 
 唐商がわが国に渡って来た早い例では、八四九(嘉祥二)年、大唐商人五三人が、多くの貨物をもって一船に乗じて来着したという大宰府の報告がある(『続日本後記』)。もっとも八四二(承和九)年観世音寺講師恵雲は、大唐商客李処人の船に乗じて入唐し(『安祥寺伽藍縁起資財帳』)、八四七(承和一四)年の帰国も唐人張友信の船に乗って、肥前値嘉島那留浦に安着するなど、唐商の来航と、それに便乗して渡唐する例がはじまっていたが、大規模の商人団の渡来は八四九年がそのはじまりであったのであろう。以後、八六二(貞観四)年には唐商周汾等六〇人(『入唐五家伝』)、八六五(貞観七)年には李延孝等六三人(『日本三代実録』)、八六六(貞観八)年には唐商張吉等四一人、八七四(貞観一六)年には唐商崔岌等三六人、八七六(貞観一八)年には、唐商楊清等三一人、八七七(元慶元)年には、唐商崔鐸等六三人が、それぞれ一船に駕して、博多湾に到着している。その後も、八八三(元慶七)年に、唐商柏志貞が、八八五(仁和元)年には、唐商が大宰府に到着すると、王臣家の使や管内の吏民が、高価をもって唐物を競買することを禁止している(『三代実録』)。
 
 この間遣唐使の派遣は、計画すら行なわれなかったのは、これら唐商の来航によって、唐の文物を入手しようとする要求はみたされ、且大陸の情報も入手できるからである。そのためこれらは民間人であるにも拘わらず、その管理は大宰府の権限に属した。唐商が来着すると、大宰府はこれを京都に報告し、その貿易を行わせるか否かの指示をうける。貿易を行なわせることにきまれば、商人を鴻臚館に収容し、朝廷から唐物使を派遣して貨物を点検し、和市と称して、まず朝廷の必要とするものを先買する。そのあと、王臣家の使や府下の吏民の私貿易を行わせる、という原則がたてられた(『新儀式』)。こうして大宰府鴻臚館は、国営貿易所と化し、大宰府官人は、貿易管理人の性格を深めたのである。唐は九〇六(延喜六)年に亡びるが、大陸商船の来航は、王朝の興亡にかかわりなくつづいたのである。(竹内理三)

朝廷による公式の遣使が停止された後も、商人や僧侶による大陸交易が一向に衰えるものではなく、逆に頻度が上がったことが明らかである。

※上掲文中で唐の滅亡を906とするが、各種年表をみても、それは907年のこととする。竹内理三氏には何らかの解釈があってこのように記述したのか否か、不明である。
2023-07-04 (Tue)

『新唐書』『宋史』所載日本王統記について

『新唐書』『宋史』所載日本王統記について

丸山晋司氏とのやり取りの中で、少し気がついた点があったのでツイートした。以下はそのまとめ。>「幻想九州王朝説」みたいなものが「古代末期」からあったではなくて、日本国家創世記みたいなものが僧侶の間で徐々に形作られ、その一つの完成形が奝然の『王年代紀』ではないかと― 『新唐書』にはそれに先行する年代記も伝わってますし。〝古い倭国よさようなら~〟みたいな―午後6:11 · 2023年7月4日奝然が入宋したのは雍煕元年...

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丸山晋司氏とのやり取りの中で、少し気がついた点があったのでツイートした。以下はそのまとめ。

>「幻想九州王朝説」みたいなものが「古代末期」からあった
ではなくて、日本国家創世記みたいなものが僧侶の間で徐々に形作られ、その一つの完成形が奝然の『王年代紀』ではないかと― 『新唐書』にはそれに先行する年代記も伝わってますし。〝古い倭国よさようなら~〟みたいな―
午後6:11 · 2023年7月4日

奝然が入宋したのは雍煕元年(984)なので、後晋開運二年(945)成立の『旧唐書』より後ですね。ですから『旧唐書』に「王年代紀」は反映されていません。
午後10:13 · 2023年7月4日

あれ?岩波文庫『旧唐書倭国日本伝 宋史日本伝・元史日本伝』の解説を読んでて疑問符が― p16
『新唐書』〈中略〉倭国と日本を併記するような不体裁なこともなく、記事もととのっているが、つぎの『宋史』日本伝のところでのべるが奝然のもたらした『王年代紀』を利用したらしい点のほかは...
午後10:28 · 2023年7月4日

解説の石原道博氏は『新唐書』の日本王統を奝然の「王年代紀」によったものと考えてるようですね。違うと思いますが― 『新唐書』の王年代は光孝天皇までで【直光啓元年】つまり885年まで。「王年代紀」は【守平天皇】すなわち円融天皇(959-991)までで【即今王也】とします。
午後10:36 · 2023年7月4日

両王統は記事も相違があり、最後の天皇も違う。『新唐書』に見える年代記は「光孝=光元年(885)」とあることから、『宋史』日本伝【大中、光啓、龍德及周廣順中,皆嘗遣僧至中國,唐書中、五代史失其傳。】中の光啓年中の「遣僧至中國」とみるべきかと。

つまり奝然に先んじた入宋僧がもたらした!
午後10:42 · 2023年7月4日

最後の遣唐使は承和5年(838)-承和6年(839)で、道真の建議により遣唐使が停止されたのが寛平6年(894)。光啓中の僧による遣使はこの間に位置し、大和朝廷の高官などが主体となる遣唐使から僧による遣使へと変更されたのかも知れません。
午後10:50 · 2023年7月4日

※2023/7/5 「漢籍電子文献」上では啟だが、百衲本に従って啓に改めた。

2023-06-25 (Sun)

白鳥庫吉の〝面土国は伊都国〟

白鳥庫吉の〝面土国は伊都国〟

白鳥庫吉「卑弥呼問題の解決」『オリエンタリカ』一 昭和二三年八月佐伯有清編『邪馬台国基本論文集Ⅱp67-p126』収載 p111かう考へて来て再び後漢書を披くとやはり東夷伝倭奴国の条に続いて安帝永初元年、倭国王帥升等献生口百六十人、願請見。と云ふ伝へがあることを発見する。そしてこの「倭国王帥升」云々の句は翰苑所引の後漢書に安帝永初元年、有倭面上国王師升……と見え、唐類函辺塞部倭国の条に引く所の通典には倭面土地王師升...

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白鳥庫吉「卑弥呼問題の解決」『オリエンタリカ』一 昭和二三年八月
佐伯有清編『邪馬台国基本論文集Ⅱp67-p126』収載 p111

かう考へて来て再び後漢書を披くとやはり東夷伝倭奴国の条に続いて
安帝永初元年、倭国王帥升等献生口百六十人、願請見。
と云ふ伝へがあることを発見する。そしてこの「倭国王帥升」云々の句は翰苑所引の後漢書に
安帝永初元年、有倭面上国王師升……
と見え、唐類函辺塞部倭国の条に引く所の通典には
倭面土地王師升等……
とあり、宮内省図書寮尊蔵北宋版通典には
安帝永初元年 倭面土国王師升等生口。
とあり、釈日本紀開題には
後漢書云、孝安皇帝永初元年冬十月、倭面国遣使奉献。
とあることから推して、内藤博士の説の如く(読史叢録所収「倭面土国」参照)最初「倭面土国王師升」とあったと見るのが正しいやうであるが(橋本増吉氏、日本上古史研究、一、「翰苑所載本文の批判」)たとへ然りとするも、この記事が奴国の記事に続いて記されて居り、然も一方に於いて上古奴国と並んで最も盛んに対支交通を行ったらしい国が伊都国であったことから考へて、この倭面土国を後の伊都国に比定するのは最も全体の形勢に合致するものと信ずるのである。然らば伊都はいかにして面土と書かれるやうになったものであらうか。康熙字典巻八を見ると、口部四画「囬」の条に鄞本監韻を引いて
回作囬非、囬乃古面字也
と云ふ記事が載ってゐるから面の古字は囬であったことが知られる。そして囬と回とは相互に誤られ易い字であるから、倭面土国とあるのは正しくは倭回土国とあったのであらうと云ふ想像を可能ならしめる。回は回鶻の回であるから*Wei のやうに発音されたものであらう。然らば回土(Wei-tu)は即ち伊都 (I-tu)の音を写したものと見得るのであって、これに倭面土国を伊都国に比定せんとする余輩の見解は文字・音韻の上からも確かめられることになるのである。(然しそれならばなぜもつと Itu に近い音を持つ文字の名を写さなかったのか、そしてなぜ Weitu の如き稍〻訛った音を以てこれを写したのかといふ疑問が出るかも知れないが、これは支那人は語頭の母音を純に母音として発音し、又これを写すに困難を感ずる傾きがあり、これにw, h, y の如き半母音乃至ng[ŋ]の如き軽き鼻音を加へて発音し、又これらの音を以て始まる語の文字を以てこれを写す癖があることを知るものには少しも怪しむに足りないことであり、余輩が既に屢〻その実例を示したことであるからここには敢て贅せぬこととする)。


『鄞本監韻』をネットで検索すると
多言數窮」というサイトの記事がヒットした。

『康煕字典』より引いて曰く


2023-06-21 (Wed)

「箸中地区の木製輪鐙(桜井市大字箸中)」について

「箸中地区の木製輪鐙(桜井市大字箸中)」について

twitter上で久しぶりに「輪鐙」を持ち出した方がおられたので、掲示板時代を思い出してネット検索してみた。桜井市纏向学研究センターのサイトに以下のような解説が載っている。箸中地区の木製輪鐙(桜井市大字箸中) 木製輪鐙は箸墓古墳後円部裾で行われた纒向遺跡第109次調査で出土しました。輪鐙が出土したのは幅約10mの箸墓古墳周濠の上層に堆積した、厚さ約20~25㎝の植物層の中層からで、古墳が築造されて暫く後に周濠に投げ...

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twitter上で久しぶりに「輪鐙」を持ち出した方がおられたので、掲示板時代を思い出してネット検索してみた。桜井市纏向学研究センターのサイトに以下のような解説が載っている。

箸中地区の木製輪鐙(桜井市大字箸中)
 木製輪鐙は箸墓古墳後円部裾で行われた纒向遺跡第109次調査で出土しました。
輪鐙が出土したのは幅約10mの箸墓古墳周濠の上層に堆積した、厚さ約20~25㎝の植物層の中層からで、古墳が築造されて暫く後に周濠に投げ込まれたものと考えられます。
 輪鐙はアカガシ亜属の材を用いて作られていますが、輪の下部を欠損しています。現存長は16.3㎝、最大幅10.2㎝、柄の部分は上部がやや開き、他の輪鐙の類例よりは若干長めのものです。柄の長さは11.2㎝、上方幅3.2㎝、下方幅2.6㎝、厚さは1.5㎝程度で、柄の上部には縦1.5㎝、横1㎝の縦長の鐙靼孔があけられていますが、孔の上部から柄の上端にかけては鐙靼によって摩耗したと考えられる幅1㎝程度の摩耗痕が認められ、この鐙が実際に使用されていたものであることを物語っています。
 輪鐙が出土した植物層には土器片と少量の加工木が含まれ、輪鐙の所属時期は層位やこれらの遺物の年代観から布留1式期(4世紀初め)の国内最古の事例と考えられています。 


また、Wikipedia「箸墓古墳」でも以下の通り輪鐙について解説する。

周溝出土の馬具

『魏志倭人伝』では牛馬がいなかったと記述されているが、周壕からは馬具(木製の輪鐙)が出土している。

桜井市教育委員会が2000年(平成12年)に実施した纒向遺跡第109次発掘調査で、周濠内の覆土(植物層)上層から木製の輪鐙(馬具)が発見されている[15]。同時に出土した布留Ⅰ式土器により4世紀初頭頃のものとされるが[16]、これにより列島内への騎馬文化の流入および東アジアにおける騎馬文化の伝播の理解が従来よりも古く修正されることになった。
なお、周濠が機能停止し埋没し始めた後に堆積した土層からの出土であることから、古墳本体の築造年代論とは直接関連しない。

 
掲示板では輪鐙の年代=箸墓の築造年代と言い張る投稿氏がおられたが、tenchuukunさんやredhani1972さんが、その誤りを指摘された。tenchuukunさんは新聞記事から下記を引用。

輪鐙は落葉などが二十-三十年にわたってたい積して固く締まった層から、四世紀初めの大量の土器とともに出土しており、上の土層から沈み込んだとは考えられないという。 (中日新聞2001年12月 1日)

箸墓が布留0式の時代に築造を終了していると推定されているので、その布留0式の実年代がどの辺りに求められるのか?研究者の間でも意見が分かれているらしい。

いずれにしても3世紀なかばまでには纏向の古墳群形成が始まっているのは確かのようだ。

※考古学分野は文献に比べて情報更新が多いので、数年立つと自分の知識が最早陳腐化の範疇に含まれていたりするのかも知れない。


2023-06-10 (Sat)

ChatGPTに〝前原市の平原古墳が卑弥呼の墓だという主張がありますが、正しいでしょうか?〟と質問したら?

ChatGPTに〝前原市の平原古墳が卑弥呼の墓だという主張がありますが、正しいでしょうか?〟と質問したら?

卑弥呼(ヒミコ)は、日本の古代の女王であり、倭国(やまとのくに)という地域を統治していたと言われています。彼女の墓については、諸説がありますが、具体的な場所や墓の存在に関しては確定的な証拠が存在しません。一部の主張では、前原市の平原古墳が卑弥呼の墓だとされていますが、これはあくまで仮説や伝説に基づくものです。平原古墳は日本で最大級の前方後円墳であり、古墳時代の豪族の墓とされていますが、直接的な証拠...

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卑弥呼(ヒミコ)は、日本の古代の女王であり、倭国(やまとのくに)という地域を統治していたと言われています。彼女の墓については、諸説がありますが、具体的な場所や墓の存在に関しては確定的な証拠が存在しません。

一部の主張では、前原市の平原古墳が卑弥呼の墓だとされていますが、これはあくまで仮説や伝説に基づくものです。
平原古墳は日本で最大級の前方後円墳であり、古墳時代の豪族の墓とされていますが、直接的な証拠は存在しません。

考古学や歴史学の分野では、古墳の所有者や関連する人物の特定は困難であり、推測や解釈に基づくものが多いです。卑弥呼の墓についても同様であり、具体的な場所や墓の特定は難しいとされています。

したがって、前原市の平原古墳が卑弥呼の墓であるとする主張は、学界で広く受け入れられたものではありません。古代の歴史や遺跡に関する研究が進展するにつれ、新たな発見や解釈がなされる可能性はありますが、現時点ではそのような確定的な証拠は存在しません。

平原古墳は日本で最大級の前方後円墳であり、古墳時代の豪族の墓とされていますが」はどこから引いてきた?
2023-06-07 (Wed)

ChatGPTに〝九州王朝説は現在どれくらい支持されていますか?〟と聞いてみたら?

ChatGPTに〝九州王朝説は現在どれくらい支持されていますか?〟と聞いてみたら?

九州王朝説は、日本の歴史において9世紀から10世紀にかけて九州を中心とした勢力が日本を支配していたという説です。しかし、九州王朝説は学界においては広く受け入れられているわけではありません。九州王朝説は、主に戦国時代以降に成立した史書や歴史資料に基づいて提唱されましたが、それらの資料には九州王朝の存在を裏付ける明確な証拠が乏しいとされています。また、九州王朝説には他の地域や勢力との関係性や政治的な組織...

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九州王朝説は、日本の歴史において9世紀から10世紀にかけて九州を中心とした勢力が日本を支配していたという説です。しかし、九州王朝説は学界においては広く受け入れられているわけではありません。

九州王朝説は、主に戦国時代以降に成立した史書や歴史資料に基づいて提唱されましたが、それらの資料には九州王朝の存在を裏付ける明確な証拠が乏しいとされています。また、九州王朝説には他の地域や勢力との関係性や政治的な組織構造についても疑問が呈されています。

一方で、一部の研究者や歴史愛好家の間では九州王朝説に賛同する声もあります。彼らは、九州が古代から中世にかけて日本の政治的な中心地であった可能性を指摘し、そのような勢力が存在したと主張しています。しかし、この説には他の仮説との比較やさらなる証拠の提供が求められています。

総合すると、九州王朝説は学界においては依然として議論の対象となっており、広く受け入れられた説とは言い難い状況です。

という回答が!古田武彦氏の〝古〟も出てこない!
2023-06-07 (Wed)

ChatGPTに〝邪馬台国東遷説というのがありますが、果たして正しいのでしょうか?〟と質問してみたら?

ChatGPTに〝邪馬台国東遷説というのがありますが、果たして正しいのでしょうか?〟と質問してみたら?

邪馬台国東遷説(やまたいこくとうせんせつ)は、邪馬台国(やまたいこく)という古代の国家が、大和(現在の奈良県周辺)から東へ遷都したとする説です。この説は、邪馬台国の実在とその遷都に関する議論が存在する中で提唱されています。邪馬台国は、『日本書紀』に記述がある古代の国家であり、倭(やまと)の王が治めていたとされています。ただし、具体的な場所や存在がはっきりと解明されていないため、研究者の間でも議論が...

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邪馬台国東遷説(やまたいこくとうせんせつ)は、邪馬台国(やまたいこく)という古代の国家が、大和(現在の奈良県周辺)から東へ遷都したとする説です。この説は、邪馬台国の実在とその遷都に関する議論が存在する中で提唱されています。

邪馬台国は、『日本書紀』に記述がある古代の国家であり、倭(やまと)の王が治めていたとされています。ただし、具体的な場所や存在がはっきりと解明されていないため、研究者の間でも議論が分かれています。

邪馬台国東遷説は、邪馬台国が元々大和に存在し、後に東へ遷都したという仮説です。この説の提唱者たちは、考古学的な遺跡の発掘や古代の文献資料の解釈などを根拠にして、邪馬台国の存在地を東に位置づける主張をしています。

しかし、邪馬台国の具体的な位置や遷都に関する証拠は現在のところ十分に明確ではありません。考古学的な発掘調査や学術的な研究が進められていますが、まだ一つの結論に至っていない状況です。

そのため、邪馬台国東遷説の正確性を断定することは難しいです。現時点では、邪馬台国の存在やその歴史的な位置付けについては、さまざまな見解や仮説が存在すると言えます。

研究が進展するにつれて、新たな証拠や解釈が出てくる可能性もあります。将来的な研究の成果に注目しつつ、より詳細な情報が明らかにされることを期待しましょう。

という回答が!

ついでにGoogleBARDにも聞いてみた。

邪馬台国東遷説は、邪馬台国が九州から奈良県の纒向遺跡に移転したという説です。この説は、明治時代に白鳥庫吉によって提唱され、その後、多くの研究者によって支持されてきました。しかし、近年の研究では、邪馬台国東遷説を裏付ける証拠はほとんどないことがわかってきました。そのため、邪馬台国東遷説は、現在ではほとんど支持されていません。

邪馬台国東遷説が支持されなくなった理由は、いくつかあります。まず、魏志倭人伝には、邪馬台国が九州にあったという記述があります。また、纒向遺跡からは、邪馬台国の存在を裏付けるような遺物はほとんど発見されていません。さらに、邪馬台国東遷説を支持する証拠は、白鳥庫吉の推論に基づいており、科学的ではありません。

このように、邪馬台国東遷説は、現在ではほとんど支持されていません。邪馬台国の所在地は、いまだに謎に包まれています。

こっちが少しマシかも、、、
2023-06-02 (Fri)

BingChatに〝吉野ヶ里遺跡が邪馬台国だという主張がありますが、正しいでしょうか?〟と聞いてみたら?

BingChatに〝吉野ヶ里遺跡が邪馬台国だという主張がありますが、正しいでしょうか?〟と聞いてみたら?

A.吉野ヶ里遺跡が邪馬台国だという主張については、学界では否定されています。吉野ヶ里遺跡は、古代日本の豪族が住んでいた場所であり、邪馬台国とは異なる場所にあるとされています⁵²。ただし、吉野ヶ里遺跡には、古代の中国や朝鮮半島との交流があったことが示唆される出土品が多数見つかっており、古代日本の政治的・文化的な中心地の一つであったことは間違いありません⁵²。ソース: Bing との会話 2023/6/2(1) 吉野ヶ里遺跡 ...

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A.吉野ヶ里遺跡が邪馬台国だという主張については、学界では否定されています。吉野ヶ里遺跡は、古代日本の豪族が住んでいた場所であり、邪馬台国とは異なる場所にあるとされています⁵²。ただし、吉野ヶ里遺跡には、古代の中国や朝鮮半島との交流があったことが示唆される出土品が多数見つかっており、古代日本の政治的・文化的な中心地の一つであったことは間違いありません⁵²。

ソース: Bing との会話 2023/6/2(1) 吉野ヶ里遺跡 墓の一部出土「歴史的に大きな意味の可能性も .... https://www3.nhk.or.jp/news/html/20230529/k10014081181000.html アクセス日時 2023/6/2.
(2) 佐賀県・吉野ヶ里遺跡「謎のエリア」に大きな墓…邪馬台国と .... https://www.yomiuri.co.jp/local/kyushu/news/20230530-OYTNT50069/ アクセス日時 2023/6/2.
(3) https://www.yoshinogari.jp/ym/topics/yama01.html#:~:text=%E5%90%89%E9%87%8E%E3%83%B6%E9%87%8C%E9%81%BA%E8%B7%A1%E3%81%AF%E9%AD%8F%E5%BF%97%E5%80%AD%E4%BA%BA%E4%BC%9D%E3%81%AB%E8%A8%98%E8%BF%B0%E3%81%95%E3%82%8C%E3%81%A6%E3%81%84%E3%82%8B%E3%80%8C%E9%82%AA%E9%A6%AC%E5%8F%B0%E5%9B%BD%E3%80%8D%E3%81%AE%E5%A7%BF%E3%82%92%E3%81%AF%E3%81%98%E3%82%81%E3%81%A6%E5%85%B7%E4%BD%93%E7%9A%84%E3%81%AB%E7%A4%BA%E3%81%99%E9%81%BA%E8%B7%A1%E3%81%A8%E3%81%97%E3%81%A6%E5%A4%A7%E3%81%8D%E3%81%AA%E6%B3%A8%E7%9B%AE%E3%82%92%E9%9B%86%E3%82%81%E3%81%BE%E3%81%97%E3%81%9F%E3%80%82.,%E5%A4%9A%E3%81%8F%E3%81%AE%E5%8F%A4%E4%BB%A3%E5%8F%B2%E3%83%95%E3%82%A1%E3%83%B3%E3%81%AE%E5%BF%83%E3%82%92%E6%8D%89%E3%81%88%E3%81%A6%E9%9B%A2%E3%81%95%E3%81%AA%E3%81%84%E9%82%AA%E9%A6%AC%E5%8F%B0%E5%9B%BD%E3%80%81%E3%81%9D%E3%81%AE%E6%89%80%E5%9C%A8%E5%9C%B0%E3%82%92%E5%BB%BB%E3%81%A3%E3%81%A6%E6%A7%98%E3%80%85%E3%81%AA%E8%AA%AC%E3%81%8C%E6%8F%90%E5%87%BA%E3%81%95%E3%82%8C%E3%81%A6%E3%81%84%E3%81%BE%E3%81%99%E3%81%8C%E3%80%81%E3%80%8C%E8%BF%91%E7%95%BF%E8%AA%AC%E3%80%8D%E3%81%A8%E3%80%8C%E4%B9%9D%E5%B7%9E%E8%AA%AC%E3%80%8D%E3%81%8C%E6%9C%80%E3%82%82%E6%9C%89%E5%8A%9B%E3%81%A8%E3%81%95%E3%82%8C%E3%81%A6%E3%81%84%E3%81%BE%E3%81%99%E3%80%82.. https://www.yoshinogari.jp/ym/topics/yama01.html アクセス日時 2023/6/2.
(4) 「邪馬台国時代の墓」を発掘 有力者の墓の可能性も 吉野ヶ里遺跡 .... https://www.msn.com/ja-jp/news/opinion/%E9%82%AA%E9%A6%AC%E5%8F%B0%E5%9B%BD%E6%99%82%E4%BB%A3%E3%81%AE%E5%A2%93-%E3%82%92%E7%99%BA%E6%8E%98-%E6%9C%89%E5%8A%9B%E8%80%85%E3%81%AE%E5%A2%93%E3%81%AE%E5%8F%AF%E8%83%BD%E6%80%A7%E3%82%82-%E5%90%89%E9%87%8E%E3%83%B6%E9%87%8C%E9%81%BA%E8%B7%A1%E3%81%A74%E6%9C%88%E7%99%BA%E6%8E%98%E3%81%95%E3%82%8C%E3%81%9F%E7%9F%B3%E6%A3%BA%E5%A2%93-%E4%BD%90%E8%B3%80%E7%9C%8C/ar-AA1bPTmV アクセス日時 2023/6/2.
(5) 吉野ヶ里遺跡の「謎エリア」で新発見、邪馬台国時代の石棺墓か. https://news.yahoo.co.jp/articles/b1ecc567bd0e979d7100aa006959d899e4beb142 アクセス日時 2023/6/2.
2023-06-02 (Fri)

GoogleBardに〝吉野ヶ里遺跡が邪馬台国だという主張がありますが、正しいでしょうか?〟と聞いてみたら?

GoogleBardに〝吉野ヶ里遺跡が邪馬台国だという主張がありますが、正しいでしょうか?〟と聞いてみたら?

A.吉野ヶ里遺跡が邪馬台国であるという主張は、古代史研究者の間で長年議論されてきた問題です。吉野ヶ里遺跡は、佐賀県神埼郡吉野ヶ里町と神埼市にまたがる場所にある弥生時代の遺跡で、1980年代から発掘調査が行われています。吉野ヶ里遺跡からは、大規模な環濠集落跡や、中国大陸製の青銅器などの多くの遺物が出土しています。これらの遺物は、吉野ヶ里遺跡が邪馬台国であったことを示す証拠として、吉野ヶ里遺跡が邪馬台国であ...

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A.吉野ヶ里遺跡が邪馬台国であるという主張は、古代史研究者の間で長年議論されてきた問題です。吉野ヶ里遺跡は、佐賀県神埼郡吉野ヶ里町と神埼市にまたがる場所にある弥生時代の遺跡で、1980年代から発掘調査が行われています。吉野ヶ里遺跡からは、大規模な環濠集落跡や、中国大陸製の青銅器などの多くの遺物が出土しています。これらの遺物は、吉野ヶ里遺跡が邪馬台国であったことを示す証拠として、吉野ヶ里遺跡が邪馬台国であるという主張を支持する古代史研究者もいます。

しかし、吉野ヶ里遺跡が邪馬台国であるという主張には、いくつかの反論もあります。まず、吉野ヶ里遺跡は、魏志倭人伝に記述されている邪馬台国の所在地である
「狗奴国」の位置と一致しません。魏志倭人伝によると、狗奴国は、邪馬台国から北に約1000里離れた場所にあるとされています。しかし、吉野ヶ里遺跡は、邪馬台国から北に約2000里離れた場所にあります。

また、吉野ヶ里遺跡は、邪馬台国が存在したと考えられている時期よりも、約100年ほど遅い時期に作られたと考えられています。魏志倭人伝によると、邪馬台国は、3世紀前半に存在していたとされています。しかし、
吉野ヶ里遺跡は、4世紀前半に作られたと考えられています

これらの反論から、吉野ヶ里遺跡が邪馬台国であるという主張は、確実なものではないと考えられています。しかし、吉野ヶ里遺跡は、邪馬台国が存在した時期に作られた大規模な遺跡であることは間違いありません。そのため、吉野ヶ里遺跡が邪馬台国であった可能性は、十分にあると考えられています。
2023-06-02 (Fri)

ChatGPTに〝吉野ヶ里遺跡が邪馬台国だという主張がありますが、正しいでしょうか?〟と聞いてみたら?

ChatGPTに〝吉野ヶ里遺跡が邪馬台国だという主張がありますが、正しいでしょうか?〟と聞いてみたら?

Q.吉野ヶ里遺跡が邪馬台国だという主張がありますが、正しいでしょうか?A.吉野ヶ里遺跡が邪馬台国であるという主張は、学界の中で一部の研究者によって提唱されていますが、現時点では広く受け入れられた正式な結論ではありません。邪馬台国は、古代日本の史書『日本書紀』に登場する国であり、その正確な位置や存在は長い間謎とされてきました。吉野ヶ里遺跡は、奈良県吉野ヶ里町にある倭国の首都であったと考えられている遺跡で...

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Q.吉野ヶ里遺跡が邪馬台国だという主張がありますが、正しいでしょうか?

A.吉野ヶ里遺跡が邪馬台国であるという主張は、学界の中で一部の研究者によって提唱されていますが、現時点では広く受け入れられた正式な結論ではありません。

邪馬台国は、古代日本の史書『日本書紀』に登場する国であり、その正確な位置や存在は長い間謎とされてきました。吉野ヶ里遺跡は、奈良県吉野ヶ里町にある倭国の首都であったと考えられている遺跡です。一部の研究者は、吉野ヶ里遺跡の遺構や出土品、および地理的条件などから、それが邪馬台国の可能性があると主張しています。

しかし、この主張にはいくつかの疑問や議論があります。邪馬台国の正確な位置や存在については、古代の文献や考古学的な証拠が限られており、複数の説が存在しています。また、吉野ヶ里遺跡自体の解釈にも異論があり、遺跡が邪馬台国であるとする根拠は確定的ではありません。

学界では、邪馬台国の正体に関しては引き続き研究が進められています。吉野ヶ里遺跡が邪馬台国であるという主張についても、新たな証拠や研究結果が提出されることが期待されています。そのため、現時点では吉野ヶ里遺跡が邪馬台国であるとする主張は学術的な議論の一環として捉えられています。

2023-05-31 (Wed)

ChatGPTに〝蘇我氏は九州王朝の豪族という主張がありますが、正しいでしょうか?〟と尋ねてみたら?

ChatGPTに〝蘇我氏は九州王朝の豪族という主張がありますが、正しいでしょうか?〟と尋ねてみたら?

A:いいえ、蘇我氏は九州王朝の豪族ではありません。蘇我氏は、古代日本における大和朝廷(ヤマト王権)の支配層でした。彼らは6世紀から7世紀にかけて、ヤマト王権の中で非常に重要な役割を果たしました。蘇我氏は、蘇我蝦夷(そがのえみし)を祖とし、政治・軍事・宗教などの面で大和朝廷に仕えました。彼らは皇室との縁戚関係を築き、蘇我馬子(そがのうまこ)や蘇我入鹿(そがのいりしか)などの有力な政治家や豪族を輩出しま...

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A:いいえ、蘇我氏は九州王朝の豪族ではありません。蘇我氏は、古代日本における大和朝廷(ヤマト王権)の支配層でした。彼らは6世紀から7世紀にかけて、ヤマト王権の中で非常に重要な役割を果たしました。

蘇我氏は、蘇我蝦夷(そがのえみし)を祖とし、政治・軍事・宗教などの面で大和朝廷に仕えました。彼らは皇室との縁戚関係を築き、蘇我馬子(そがのうまこ)や蘇我入鹿(そがのいりしか)などの有力な政治家や豪族を輩出しました。

蘇我氏は一時期、大和朝廷においてその影響力を強め、特に蘇我馬子は物部守屋を排除して大臣に就任し、一族の力を頂点に達しました。しかし、7世紀の中頃には、物部氏や中臣氏などの他の豪族勢力との対立が激化し、蘇我氏は衰退しました。最終的には、物部守屋の子孫である大友皇子(後の天智天皇)によって蘇我氏は滅ぼされました。

九州における王朝や豪族としては、蘇我氏ではなく、倭国(やまとのくに)や邪馬台国(やまたいこく)などの存在が言及されています。これらの王朝や豪族は九州地域に関連するものとされていますが、詳細な情報や証拠は限られており、研究が進行中です。


2023-05-29 (Mon)

ChatGPTに〝邪馬台国時代とはどういう意味でしょうか?〟という質問をしたら?

ChatGPTに〝邪馬台国時代とはどういう意味でしょうか?〟という質問をしたら?

邪馬台国時代は、日本の古代史において、3世紀から4世紀にかけて存在したと考えられている政治的・文化的な時代を指します。邪馬台国は、古代中国の記録において「倭国」として言及されている国の一つであり、現在の大和地方(奈良県周辺)に位置していたと考えられています。邪馬台国時代は、日本列島が複数の地域集団に分かれていた時期であり、邪馬台国はその中でも政治的な中心地の一つであったと考えられています。邪馬台国に...

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邪馬台国時代は、日本の古代史において、3世紀から4世紀にかけて存在したと考えられている政治的・文化的な時代を指します。邪馬台国は、古代中国の記録において「倭国」として言及されている国の一つであり、現在の大和地方(奈良県周辺)に位置していたと考えられています。

邪馬台国時代は、日本列島が複数の地域集団に分かれていた時期であり、邪馬台国はその中でも政治的な中心地の一つであったと考えられています。邪馬台国については、具体的な証拠や遺跡が見つかっていないため、詳細な情報は不明な部分が多いですが、古代中国の史書や日本の古代文献などから一部の情報が得られています。

邪馬台国時代は、倭(やまと)の豪族や女王を中心とした政治的な組織が存在し、中国との交流も行われていたと考えられています。また、当時の社会や文化、宗教的な信仰などについても研究が進められていますが、詳細な解明はまだされていない部分もあります。

邪馬台国時代は、日本の古代史研究において重要な時期であり、日本の国家形成の過程や古代の政治・社会の構造について理解する上で重要な情報源となっています。ただし、その正確な姿や歴史的な位置づけは今なお議論が続いているため、さまざまな意見が存在しています。

という回答が!
2023-05-13 (Sat)

ChatGPTに〝壬申の乱は九州が舞台だったという説がありますが、史実でしょうか?〟という質問をしてみたら

ChatGPTに〝壬申の乱は九州が舞台だったという説がありますが、史実でしょうか?〟という質問をしてみたら

Q.壬申の乱は九州が舞台だったという説がありますが、史実でしょうか?Regenerate response 10 times.A1.壬申の乱が九州を舞台にしたかどうかについては、諸説あります。壬申の乱は、672年に発生した飛鳥時代末期の戦乱で、白村江の戦いに勝利した唐軍と新羅軍が日本に侵攻して、天武天皇と持統天皇の間で皇位継承を巡る内乱が勃発したものです。壬申の乱の詳細については、『日本書紀』や『続日本紀』などの史書に記されています...

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Q.壬申の乱は九州が舞台だったという説がありますが、史実でしょうか?

Regenerate response 10 times.

A1.壬申の乱が九州を舞台にしたかどうかについては、諸説あります。

壬申の乱は、672年に発生した飛鳥時代末期の戦乱で、白村江の戦いに勝利した唐軍と新羅軍が日本に侵攻して、天武天皇と持統天皇の間で皇位継承を巡る内乱が勃発したものです。

壬申の乱の詳細については、『日本書紀』や『続日本紀』などの史書に記されていますが、具体的な戦闘の場所については明確に言及されていません。ただし、『続日本紀』には、天武天皇が九州で反乱を起こした軍勢を鎮圧するために、自ら軍を率いて九州に向かったという記述があります。

一方で、九州が壬申の乱の舞台であったという説には異論もあります。『日本書紀』や『続日本紀』には、九州以外の地域での戦闘の記述もあるため、壬申の乱が九州だけに限定されるわけではないという考え方もあります。

総じて、壬申の乱が九州を舞台にしたとする説とそうでない説がありますが、具体的にどの地域が戦闘の舞台であったかは明確に解明されていない部分が多いとされています。


A2.壬申の乱は、7世紀に発生した日本の大規模な内乱ですが、その舞台については諸説あります。

一般的には、壬申の乱の舞台は近畿地方(現在の京都府や大阪府など)とされています。これは、壬申の乱の主要な指導者である大海人皇子(おおあまのみこ、のちの天武天皇)が、当時の都である難波京を拠点にして反乱を起こしたことが原因です。

しかし、最近の研究により、九州が壬申の乱の舞台であった可能性も指摘されています。九州が舞台であったとする説には、以下のような根拠が挙げられます。

一つは、壬申の乱における反乱勢力の拠点とされる「金鹿(きんろく)山」が、九州の肥前国にあったことです。また、壬申の乱に参加した豪族たちの多くが、九州の豪族であったことも指摘されています。さらに、天武天皇が即位した後に制定された「壬申年号」が、九州の豪族たちの反乱を意識して名づけられた可能性もあります。

ただし、壬申の乱の舞台が九州であるかどうかについては、まだ解明されていない部分が多く、学者の間でも意見が分かれています。


A3.壬申の乱は、日本の古代史における有名な内乱の一つで、672年から673年にかけて発生したものです。この内乱について、九州が舞台であったという説がありますが、史実かどうかは定かではありません。

一般に、壬申の乱は、大和朝廷(現在の奈良県にあった古代の中央政府)と、それに反旗を翻した百済系の勢力との間の戦いとされています。壬申の乱は、大和朝廷内部の対立に起因するものであり、百済系の勢力は、大和朝廷による政策に反発して、蜂起したとされています。

壬申の乱が九州が舞台であったという説は、一部の研究者の間で主張されています。九州が舞台であるとする根拠としては、『続日本紀』に記された「征九州平壱門之亂」の記述が挙げられます。これによると、壬申の乱の後、大和朝廷は九州の門司を攻め、平定したとされています。

ただし、この「平壱門之亂」が壬申の乱の一部であったかどうかについては、研究者の間で意見が分かれています。また、九州が主戦場であったとする証拠は、他には見つかっていません。壬申の乱の詳細については、今なお研究が続けられており、今後の研究によって新たな事実が明らかになる可能性があります。


A4.壬申の乱は、7世紀初頭に日本で起こった政変で、藤原不比等と大海人皇子(後の天武天皇)が、皇位継承を巡って争った事件です。壬申の乱の舞台については、史料によって諸説ありますが、九州がその一つとして挙げられることがあります。

壬申の乱が九州で起こったという説は、『日本書紀』や『続日本紀』などの史料によって裏付けられています。特に、藤原不比等が九州で挙兵したとする記述が多数存在し、これを根拠に九州が壬申の乱の舞台であったとする説が提唱されています。

しかし、九州が壬申の乱の主要な舞台であったかどうかについては、史料の解釈によって見解が分かれています。また、壬申の乱は全国的に起こった政変であり、九州以外でも多数の合戦が行われたとされています。

つまり、九州が壬申の乱の舞台であったことは史料に裏付けられていますが、それが全国的な政変の中でどの程度の役割を果たしたかについては、議論が分かれるところです。


A5.「壬申の乱」は、日本の歴史において、7世紀に起こった戦乱の一つで、唐との関係をめぐって発生しました。壬申の乱が具体的にどこで起こったのかについては、史料によって異なる説があります。

一説によると、壬申の乱は、九州を中心に展開したとされています。『日本書紀』によれば、壬申の乱が始まる前年の壬午の乱で戦功を挙げた大伴金村が、九州の豪族である蘇我入鹿や蝦夷王を討つために、九州へ向かったとされています。また、壬申の乱で勝利を収めた聖徳太子が、その後、九州各地に仏教寺院を建立したという記録もあり、九州での戦闘があったことを示唆しています。

一方、他の史料には、壬申の乱は、山陰地方を中心に展開したという説もあります。『続日本紀』によると、乱の当事者である物部守屋が、派遣された軍勢を率いて山陰地方を転戦したという記録があります。

以上のように、壬申の乱が具体的にどこで起こったのかについては、史料によって異なる説があります。ただし、壬申の乱は、古代日本において大規模な戦乱の一つであり、日本の政治・社会史に大きな影響を与えた出来事であることに変わりはありません。


A6.壬申の乱は、日本史上の大規模な政変の一つで、672年に起こりました。この乱が具体的にどの地域で起こったのかについては、諸説ありますが、九州が舞台であったという説が有力視されています。

壬申の乱の背景には、当時の天皇・持統天皇の治世における政治的な混乱がありました。この混乱を背景に、各地の豪族たちが力を持ち始め、地方勢力が形成されるようになりました。その中で、九州地方を支配していた大伴旅人(おおとものたびと)らが、朝廷への反乱を起こし、東国から西国にかけて勢力を拡大していきました。

当時の九州地方は、中国や朝鮮半島との交流が盛んで、仏教や新羅文化などが伝えられていたことが知られています。このため、壬申の乱が九州を中心に展開されたという説が唱えられています。また、九州地方には多くの古代遺跡や古墳が残されており、その中には壬申の乱に関する遺物や遺跡も存在していることから、九州が壬申の乱の舞台であった可能性が高いと考えられています。

ただし、壬申の乱がどのように展開されたのかについては、詳しいことは分かっていません。史料が少なく、また、当時の九州地方の政治的・社会的な状況についても解明されていない部分が多いため、今後の研究が待たれるところです。


A7.壬申の乱は、7世紀初頭に発生した日本史上の大規模な政変であり、天皇位継承問題をめぐって起こりました。壬申の乱の舞台は、主に山城国(現在の京都府)や河内国(現在の大阪府)であったとされています。しかし、九州が関与していたとする説が存在します。

九州が壬申の乱に関わったとする説は、主に『日本書紀』の記述から導き出されたものです。『日本書紀』によれば、天智天皇側の将軍、大海人皇子が、九州に駐屯する兵士たちに命じて、九州の豪族である吉備真備や大伴金村らの勢力を抑え込むため、九州に進軍したという記述があります。

しかし、この説には異論もあります。九州地方の考古学的な発掘調査からは、壬申の乱時期において、九州地方においては武器や鎧などが製造されていたことが確認されていますが、戦乱が実際に起こった証拠は見つかっていません。また、『日本書紀』の記述についても、信頼性について議論があるため、九州が壬申の乱にどの程度関わったかについては、今なお研究が進んでいます。


A8.「壬申の乱」は、7世紀後半に発生した日本の歴史上、大化の改新後の政治的混乱期に起こった内乱で、蘇我氏と大伴氏が争った戦いとされています。壬申の乱は、主に大和地方を中心に展開されたとされていますが、一部に九州地方が舞台になったという説があります。

壬申の乱において、九州地方で起こったとされる戦いについては、史書『日本書紀』や『続日本紀』に記録が残っており、それによると、大友皇子率いる蘇我氏側と、阿倍仲麻呂らが率いる大伴氏側の戦いが九州地方で行われたとされています。また、『日本書紀』には、大友皇子が九州地方に進軍して、豊後国の高嶺城(たかねのき)を攻め落としたという記述もあります。

しかしながら、壬申の乱については、史料の多くが矛盾しており、正確な経緯や舞台については不明な点が多く、学術的な議論が続いています。そのため、九州地方が壬申の乱の舞台となったという説も、確実な史実としては認められていない状況です。


A9.壬申の乱は、日本の歴史において、7世紀に起きた政変で、唐との関係に不満を抱いた蘇我氏を中心に、大化の改新で台頭した新興勢力との対立が背景にあります。壬申の乱の舞台は、史書によって異なっていますが、九州説も存在します。

壬申の乱における九州説の主張は、壬申の乱の発端となった蘇我入鹿(そがいりか)ら、大海人皇子(おおあまのみこ)を攻撃した後、九州に逃れ、そこで乱を主導したというものです。この説によれば、蘇我氏と新興勢力の間の争いは、九州を中心に展開されたとされています。

しかし、壬申の乱の九州説には、異論もあります。壬申の乱が発生した時代は、史書に残る情報が少なく、史実が曖昧な部分があります。そのため、壬申の乱の舞台については、諸説あるとされています。

現在では、壬申の乱についての研究が進展しているため、今後の研究によって、壬申の乱の舞台についての解明が進む可能性があります。


A10.壬申の乱は、7世紀に発生した日本史上最大の内乱の一つであり、天武天皇と持統天皇の皇位継承争いが原因となり、蘇我氏を中心とする政治勢力と大伴氏を中心とする政治勢力が対立した戦いです。九州が舞台となったとする説がありますが、史実としては確定していません。

壬申の乱は、奈良時代前期の天武天皇の治世に発生し、天皇の側近である蘇我氏と、大伴氏が対立したことが原因とされています。この内乱は、全国規模で起こったため、各地での戦いが報告されています。ただし、九州が壬申の乱の主戦場であったかどうかについては、史料によって異なります。

一部の史料では、九州における壬申の乱の戦いが詳細に記されており、九州が戦場となったとされています。しかし、これらの史料は、後世に書かれたものであり、史実としての信頼性は疑わしいとされています。

一方、最も古い時期に書かれた『日本書紀』や『続日本紀』などの史料には、壬申の乱に関する記述がありますが、九州が戦場となったという明確な記述はありません。

そのため、壬申の乱が九州を中心に起こったとする説は、史実とは言い切れないものとされています。


参考:【BingChat】
A.壬申の乱は、百済の王族である金姓の人々が、新羅によって追放されたことをきっかけに、百済の滅亡を目指して起こした反乱です。壬申の乱は、百済の首都であった金城(現在の韓国全羅南道康津市)を中心に展開されました。九州が舞台だったという説はありませんでした。¹

ソース: Bing との会話 2023/5/13(1) 古代史論争。通説とは何か、真実は? | 嶋村初吉のブログ.  アクセス日時 2023/5/13.
(2) 天子宮と瀬田観音堂が阿蘇山の西にある - ojaru.jp.  アクセス日時 2023/5/13.
(3) 壬申の乱の舞台は九州説とは何? わかりやすく解説 Weblio辞書.  アクセス日時 2023/5/13.
(4) 壬申の乱 - Wikipedia.  アクセス日時 2023/5/13.
(5) 九州王朝説 - Wikipedia.  アクセス日時 2023/5/13.
(6) 壬申の乱-筑紫-/福岡史伝 -福岡の歴史をかんたん解説-.  アクセス日時 2023/5/13.


参考:【GoogleBard】
A.壬申の乱は、天武天皇元年(672年)に天智天皇の後継をめぐって、大海人皇子(後の天武天皇)と大友皇子(弘文天皇)が争った内乱です。この内乱は、近江・美濃・伊賀・東国を主な舞台として繰り広げられました。

壬申の乱が九州で行われたという説は、江戸時代の儒学者・太宰府天満宮の神主であった林羅山が唱えたものです。林羅山は、壬申の乱の記録である日本書紀の記述に矛盾があるとして、乱は九州で行われたと主張しました。しかし、この説は、他の歴史学者から多くの反論を受け、現在ではほとんど支持されていません。

壬申の乱が近江・美濃・伊賀・東国で行われたとする説は、日本書紀の記述に矛盾がなく、史料的にも裏付けられていることから、現在では最も有力な説と考えられています。

愚生にこれら回答の是非を全般的に評価する能力は存在していない!
2023-05-13 (Sat)

恐らくは余計な心配だろうが「対話型AIの問題点」について愚考してみた

恐らくは余計な心配だろうが「対話型AIの問題点」について愚考してみた

試用数日時点での「対話型AIの問題点」を愚考してみた。◆外形的には非常に簡便で有用なツールなのかも知れない。◆内実的には以下のような問題点を指摘できるのではないかと思う。1.ネット上の情報にしかアクセスできない故に人類の知的集積のごく一部しか利用できない。2.収集したネット上の情報にしても、個々の情報の当否や相互の関連性についての正確な判断を経ずに回答が生成される恐れがある。3.生成した回答を対話型AI自身に...

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試用数日時点での「対話型AIの問題点」を愚考してみた。

◆外形的には非常に簡便で有用なツールなのかも知れない。

◆内実的には以下のような問題点を指摘できるのではないかと思う。
1.ネット上の情報にしかアクセスできない故に人類の知的集積のごく一部しか利用できない。
2.収集したネット上の情報にしても、個々の情報の当否や相互の関連性についての正確な判断を経ずに回答が生成される恐れがある。
3.生成した回答を対話型AI自身によって真偽判定することは論理的に可能なのか不明である。
4.仮に上述の真偽判定が不可であるとした場合、それを実現するには人知が求められるという無限循環に陥る可能性が懸念される。
5.将来的には異種の対話型AI相互による対話によって人知を超越した集合知形成が一つの目標足りうる。

一ヶ月後にこのような考えが自分の中で維持されているかどうか?全く自信がない。