「魏志倭人伝」への旅 ブログ版

邪馬台国研究の基本文献「魏志倭人伝」とその関連史書を探求する

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2020-09-18 (Fri)

古田武彦氏は『通典』がお嫌い!?

古田武彦氏は『通典』がお嫌い!?

元・東京学芸大学教授・西村俊一氏の「日本国の原風景 ー「東日流外三郡誌」に関する一考察ー」が「古田史学の会」のサイトに公開されているので、久しぶりに読む。http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/genihonj.html初めの方に、「他方、「東北王朝」説は、神武東征以降、その支配地域は徐々に侵奪縮小されてはいくものの、古来から「倭国」と共に「蝦夷国」が存在したとする説であり、中国史籍の『冊府元亀、外臣部、朝貢三』等...

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元・東京学芸大学教授・西村俊一氏の「日本国の原風景 ー「東日流外三郡誌」に関する一考察ー」が「古田史学の会」のサイトに公開されているので、久しぶりに読む。

初めの方に、
「他方、「東北王朝」説は、神武東征以降、その支配地域は徐々に侵奪縮小されてはいくものの、古来から「倭国」と共に「蝦夷国」が存在したとする説であり、中国史籍の『冊府元亀、外臣部、朝貢三』等と共に青森県五所川原市飯詰字福泉・和田喜八郎所蔵の『東日流外三郡誌』も傍証として用いている。」
とある。

古代史ファンにもあまり馴染みのない『冊府元亀』を持ち出したのは、当然古田氏の『真実の東北王朝』から。同書p362に「「蝦夷国」とは中国側の造字」という一項を設け、その中でこの『冊府元亀』外臣部朝貢三の顯慶四年の記事を引く。読み下してあるが、原文は、【四年十月蝦夷國隨倭國使入朝】である。

古田氏は『冊府元亀』の蝦夷國について何やら解説を施しているが、何のことはない。この記事は『通典』からの引文なのである。『通典』巻一百八十五邊防一東夷上に蝦夷が記され、そこには【蝦夷國海島中小國也其使鬚長四尺尤善弓矢插箭於首令人戴弧而立四十歩射之無不中者大唐顯慶四年十月隨倭國使人入朝】とある。『冊府元亀』の文は『通典』の文から【顯慶】以降を抜粋したものである。

既に川村明氏がウェブ上に「九州王朝説批判」を掲げ、その中の「『通典』パニック」で古田氏の方法論を批判しているように、古田氏はこの『通典』を用いることが少ない。上掲「蝦夷國」の一文も『通典』をソースとするものであることは明らかであり、古田氏がそれに気が付かなかったのか、それとも敢えて触れようとしなかったのか、それは不明である。

しかし、『通典』には明確に【倭一名日本】とあり、氏の「九州王朝説」が依拠する『舊唐書』よりも1世紀半早い唐中期に成立したことを以てすれば、どちらに重きをなすべきかは明らかと言えよう。

さて、この「顯慶四年」は659年であり、「斉明紀五年」に「秋七月丙子朔戊寅、遣小錦下坂合部連石布・大仙下津守連吉祥、使於唐國。仍以道奧蝦夷男女二人示唐天子」と記すとおりヤマトから唐への遣使の際に蝦夷を伴ったことを示している。同年の「伊吉連博徳書」にも、倭国使が唐の天子に謁見し、蝦夷の話をしていることが記録されている。

659年といえば、当然「九州王朝」の存続している期間中に当たる。かつ白村江以前の時点であり、古田氏の立場からすれば【顯慶四年十月隨倭國使人入朝】も当然、九州王朝が使いしたと捉えるべきものであろう。

「斉明紀」を見れば、盛んな蝦夷との交渉が記録されている。これらも無視し、しかも斉明五年のヤマトからの唐朝への使いも否定して、どうやって当時の歴史を組み立てるというのだろうか。

西村氏は「「九州王朝」をめぐる論争において惨敗を喫した感の濃い安本美典ら」と書くが、上述のごとく、古田氏の「九州王朝説」はとっくの昔に破綻してしまっている。西村氏は史料状況をよく知らず、古田氏の言い分のみを受け入れての「報告」である。

以下の『東日流外三郡誌』を巡る発言は読んで恥ずかしくなりそうであるから気が進まない面もあるが、折角だから再読してみたいと思う。

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2020-09-17 (Thu)

古田武彦氏は孔子か?

古田武彦氏は孔子か?

 『季刊邪馬台国61号』安本美典氏「古田武彦症候群(シンドローム)の研究」p196。----------------------------------------------------------------------- 古田氏の「理解者」でもあった野呂邦暢氏がなくなられた。すると、古田氏は、たちまち、次のように記す。  「わたしは天を仰いで『天、我を亡ぼせり』の歎を深うしたのを忘れることができない。」(『季刊邪馬台国』8号)  「天、我を亡ぼせり」は、孔子が、愛弟子、顔回...

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 『季刊邪馬台国61号』安本美典氏「古田武彦症候群(シンドローム)の研究」p196。
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 古田氏の「理解者」でもあった野呂邦暢氏がなくなられた。すると、古田氏は、たちまち、次のように記す。
  「わたしは天を仰いで『天、我を亡ぼせり』の歎を深うしたのを忘れることができない。」(『季刊邪馬台国』8号)
  「天、我を亡ぼせり」は、孔子が、愛弟子、顔回を失ったときにのべたことばである。古田氏は、みずからが、孔子ほどの業績をあげていると、頭から信じているのである。あるいは、みずからを孔子にたとえ、野呂氏を弟子にたとえる「不遜」さを意識しない。
  自分が、デカルトなみの透徹した目をもっていて、自分を孔子になぞらえてもすこしもふしぎではないとまず信じ、そこから、他の研究者は、「真実を見ざる目」をもち、「盲目」であるときめてかかり、他説を論難し、判定を下す。
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心理学者でもある安本美典氏のこの稿は、非常に興味深いものがある。「古田氏の本質は、古代史上の学説として見るべきものではなく、一つの心理現象、社会現象として、考察の対象とすべきものである。」という一文は、数十年に亘って古田説に接してきた私にとっても、深く頷かざるを得ないものがある。

2020-09-17 (Thu)

喜八郎氏が、おうちでやっていたこと

喜八郎氏が、おうちでやっていたこと

『ゼンボウ 1996年8月号』原正壽氏「和田喜八郎氏〝疑惑の軌跡〟」転載『季刊邪馬台国61号』p157。----------------------------------------------------------------------- 和田喜八郎氏の子孫が飯詰小学校時代、担任の教具が「お父さんは何をやっているの」と聞いたところ「古い紙を出して字を書いている」と答えたので「子供は正直だ」と話題になったという話がある。またある人は和田喜八郎氏は「十七、十八歳の頃から家の...

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『ゼンボウ 1996年8月号』原正壽氏「和田喜八郎氏〝疑惑の軌跡〟」転載『季刊邪馬台国61号』p157。
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 和田喜八郎氏の子孫が飯詰小学校時代、担任の教具が「お父さんは何をやっているの」と聞いたところ「古い紙を出して字を書いている」と答えたので「子供は正直だ」と話題になったという話がある。またある人は和田喜八郎氏は「十七、十八歳の頃から家の中で障子紙に仏様の絵などを書いていた」とも言っている。さらに「家でぶらぶらしていることが多かった八ちゃんは、家の炉で薪を燃やし、その二メートル位のところに草鞋を干す棚を作っていました。それに垂れ下がった煤を自分の書いたものに擦り付けて、そのものを古いものとして見せるふうにしていた。絵をまねて描くことが上手でした」という話もある。さらに重大な証言がある。「自分で書いたものを天井から吊して煤がついてからそれを挟んで、何やら作っていた」とも。
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このような話は「擁護派」の方々にとっては〝フェイク〟だと切り捨てるだけのことでしょう。「偽書派」の陰謀だとか、、、

笠谷和比古教授はどうでしょうかねぇ、、、下世話な話で学者である自分の関知するところにあらず、、、かも。

不思議なことに、逆の話は出てこないんですよね。


2020-09-17 (Thu)

喜八郎氏の軍歴詐称

喜八郎氏の軍歴詐称

『ゼンボウ』1996年8月号 原正壽氏「和田喜八郎氏〝疑惑の軌跡〟」転載『季刊邪馬台国61号』p148。----------------------------------------------------------------------- 和田喜八郎氏は 「中野学校四期生(三丙)として吉原正己教官の錬磨を授得し…」と記しているが、当の吉原氏は「和田喜八郎という人を教えたことなど全くありません。名前も聞いたことがない」ときっぱりと否定されている。和田喜八郎氏自身、某大手新聞...

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『ゼンボウ』1996年8月号 原正壽氏「和田喜八郎氏〝疑惑の軌跡〟」転載『季刊邪馬台国61号』p148。

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 和田喜八郎氏は 「中野学校四期生(三丙)として吉原正己教官の錬磨を授得し…」と記しているが、当の吉原氏は「和田喜八郎という人を教えたことなど全くありません。名前も聞いたことがない」ときっぱりと否定されている。和田喜八郎氏自身、某大手新聞記者に「中野学校には行っていなかった」と告白したという後日談すら伝えられており、何をかいわんやである。和田喜八郎氏の複数の親戚筋も終戦時、和田喜八郎氏が青森にいたことを証言している。「軍隊に行ったとか、中野学校に行ったなどというのは大嘘だ」と。昭和二十年、終戦の年に喜八郎宅に宿泊した親戚筋の人は、はっきりと「喜八郎と話した」と語っているし、村の人も「八ちゃんは戦争なんかに行っていないよと語っているのだ。
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軍歴は嘘だが天井から落ちてきた話は本当だ!なんてこと、信じる人がいるのか?

ついでに古田氏が喜八郎氏の皇宮警察の話を頭から信じていると思しき会話を。『新・古代学 第1集』p107-108。
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古田「今の和田さんの皇宮警察というのは、正確にいうと、皇宮警察が成立したのは昭和二一年の正月頃からで、その前は皇宮警察というのは組織がなかったんやそうです。それで、だれが守っていたかというと、右翼めいた人やいろんな人がいて、そういうまあ今でいえばボランティアでしょうけど、自発的な組織ができてまして、その中の一人に入ってたらしいんです。
上岡「ああ、そうですか。
古田「ただその時に、和田さんの思い出話では、昭和天皇の食事の席に呼んでもらったことがあるんやそうです。もう緊張して、肉かなにか切ろうとしてナイフがポーンと天皇の前へとんでいったんですって。申しわけありません、申しわけありませんというたけど、もうニコニコして、あれは大変な方だ、ちゅうて、そういう話がもうほんと大事な話なんですよ。
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Wikipedia「軍歴詐称者」


2020-09-16 (Wed)

佐々木隆次氏による『東日流外三郡誌』所見

佐々木隆次氏による『東日流外三郡誌』所見

『季刊邪馬台国52号』1993年秋号p273-274。『東日流外三郡誌『東日流外三郡誌』の用字・語法など―その誤りを中心として―」   佐々木隆次(県立青森北高校教諭 青森古文書解読研究会副会長)-----------------------------------------------------------------------『東日流外三郡誌』は、一読して、昭和年代の、古文知識を充分身につけていない人が、歴史のいろんな面を、古文らしく、すべて同じ調子の文体で書いたものであ...

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『季刊邪馬台国52号』1993年秋号p273-274。

『東日流外三郡誌『東日流外三郡誌』の用字・語法など―その誤りを中心として―」
   佐々木隆次(県立青森北高校教諭 青森古文書解読研究会副会長)
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『東日流外三郡誌』は、一読して、昭和年代の、古文知識を充分身につけていない人が、歴史のいろんな面を、古文らしく、すべて同じ調子の文体で書いたものである。筆者が異なるはずの各文書が、同じ誤りをおかし、どれ一つとっても、異るところのない文章で書かれている。

 和田喜八郎氏に関わる『みちのくのあけぼの 市浦村史資料編 東日流外三郡誌 上巻』(青森県市浦村史編纂委員会 昭和五十四年四月一日発行)を用いて、用字と語法の誤りなどを指摘し、この書は偽作であることを述べることにする。
 この書は上中下三巻から成って、数えきれないほどの短編で構成されている。和田喜八郎氏の先祖の係累者という秋田孝季なる人物が災厄による原本(通常、古文書と称すべきもの)喪失を心配して写しとして書いたというのが、これらの文章のようである。その文章内容はほとんどが短編物語ふうで叙述スタイルも、そこに用いられていることばも古文書特有の簡潔な表現とは言えないもので、秋田孝季が生存していただろう寛政年間、つまり江戸時代中期末のものと言えない文章である。
 上中下三巻を通じて、ほんのわずか漢文で書かれている文があり、他に「源(原)漢文」と断り書きをしつつ漢字ひらがな交じりに書き直した古文調の文章もところどころにある。いずれにしても一読して昭和年代の、古文知識を充分に身にっけていない人が歴史のいろんな面を古文らしく、すべて同じ調子の文体で書いたもので、同じ種類の誤りをおかし、どれ一つをとっても異るところのない文章である。
 本書によれば、秋田孝季が副本として書写したものを、和田喜八郎氏の先祖とされる和田長三郎吉次(初代)から三代長三郎まで写し書きしたという。それであれば、本来、時代ごとに文体の特色があるものだが、これではそれぞれ筆者が異なるはずの各文書の文体を変えて、現代の一個人が自己流の文体で書いたと理解せざるを得ない。文体を変えると、おのずと部分的に内容も変わるものである。この方法で正しい歴史は伝わるはずがない。この時点で既に偽作である。ましてや秋田孝季や各代和田長三郎が書いたものでは決してない。
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どれ一つとっても、異るところのない文章」という指摘は正鵠を得ている。2006年になって古田氏が見出したとされる「寛政原本」にしても同様である。江戸期の秋田孝季や和田長三郎吉次の筆跡と、明治期の和田末吉、そして戦後の和田喜八郎氏の筆跡がことごとく酷似していることは明明白白である。

しかも、変体がなやくずし字が殆ど出てこない江戸期や明治期の古文書など、初めから眉唾であり、古文書の心得のある人々の目を誤魔化すことなどできようはずもない。

佐々木隆次氏の一稿とほぼ同じ時期に書かれたと思われる藤本光幸氏の所論を以下に引くが、藤本氏の言う「漢文体のもの」を「読み下し文に書き直し」た際、何故当時の仮名遣いが出現しないのか?「標準語がやっと定着したとき」などと見てきたようなことを言うのは笑止。

藤崎町文化財審議委員と言うなら、在地の古文書くらい目にしたことがあるのではないか。ならば、『東日流外三郡誌』の仮名遣いのおかしさに気づかないはずはないのではないかと思う。ついでに言えば、藤本氏の「偽書説」に対する反論は反論を形成していない。「和田喜八郎氏の原稿は一切使用していない」という一文が、それをよく物語っている。



【参考引用】
 『別冊歴史読本 特別増刊「古史古伝」論争』1993/8/12発行。p250
「『東日流外三郡誌』偽書説への反証」藤本光幸・藤崎町文化財審議委員。
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 原本は漢文体のものも多かったが、書写する際に長三郎末吉は、わかりやすくするために、ほとんどを読み下し文に書き直している(ただしそれに対しては原漢書と注をしている)。明治期は文体が不統一を極めた時代であるが、標準語がやっと定着したときにおいて、再書写したのであるから、文法的な誤りや誤字も仕方のないことではなかろうか。
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2020-09-12 (Sat)

『東日流外三郡誌』の正本と副本

『東日流外三郡誌』の正本と副本

『東日流六郡誌絵巻 全』山上笙介「『東日流六郡誌絵巻』と原書群」p3---------------------------------------------------------------------------原本焼失、他見無用の控書 「東日流誌」諸巻は、すべて、二部ずつ作成された。秋田藩主に提出される正本と、和田長三郎吉次が自家に伝えようと書写した控書であった。したがって、現存する和田家所蔵の書巻には、残らず、「原書控」、「控書」、「控」と記されている。 正本は...

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『東日流六郡誌絵巻 全』山上笙介「『東日流六郡誌絵巻』と原書群」p3
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原本焼失、他見無用の控書

 「東日流誌」諸巻は、すべて、二部ずつ作成された。秋田藩主に提出される正本と、和田長三郎吉次が自家に伝えようと書写した控書であった。したがって、現存する和田家所蔵の書巻には、残らず、「原書控」、「控書」、「控」と記されている。
 正本は、文政十年八月に失われたと伝えられる。完成後、秋田家に提出されたが、わけあって、主編纂者である次郎孝季に預けられ、孝季は、秋田土崎湊の日和見山に帰って、当時、自宅に保管していた。ところが、近隣から火事が起って、類火により住居を全焼する災禍に遭った。ために、苦心の著書や編著書も、ことごとく焼失してしまったのである。こうして、「東日流誌」類は、和田家だけに遣ることになったという(和田家伝)。
 和田家では、長三郎吉次の亡きあと、長三郎基吉、つづいて、権七=長三郎が相続をしたが、ともに、父・祖父らが苦心の貴重な遺産を守り、腐朽、もしくは、虫食いなどによって破損したばあいは、丹念に写本するなどして、大切に保管をつづけた。
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確かに「和田長三郎吉次が自家に伝えようと書写した」とある。正本はことごとく焼失したのだから、こんにち伝わる『東日流外三郡誌』は吉次書写の副本を出自とすることは明らかである。

「寛政原本」だと古田氏が主張する『東日流外三郡誌 二百十巻』が、なにゆえ「何種類かのいくつもの筆跡で書かれています」なのか?
2020-09-11 (Fri)

古田氏が「寛政原本」という『東日流外三郡誌 二百十巻』について

古田氏が「寛政原本」という『東日流外三郡誌 二百十巻』について

『古代に真実を求めて 古田史学論集第十一集』古田武彦「寛政原本と学問の方法」---------------------------------------------------------------------------p15それらの文書のほとんどは、わたしが知っている和田家文書です。この文書は和田喜八郎さんの息子さんの孝さんから藤本光幸さんにあずけられた。ですからほとんどの文書は、(明治写本として)わたしのよく知っている文書だった。ところがその中に一つ、わたしのまっ...

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『古代に真実を求めて 古田史学論集第十一集』古田武彦「寛政原本と学問の方法」
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p15
それらの文書のほとんどは、わたしが知っている和田家文書です。この文書は和田喜八郎さんの息子さんの孝さんから藤本光幸さんにあずけられた。ですからほとんどの文書は、(明治写本として)わたしのよく知っている文書だった。ところがその中に一つ、わたしのまったく知らない文書があった。「寛政五年七月、東日流外三部誌二百十巻、飯積邑和田長三郎」とあります。最後は「郎」でしょうね。よく見えませんが。表紙には見えませんが、もしこの下に名前があったとしたら「吉次」。「長三郎」という名前は代々引き継ぐものですから「寛政」という時代なら「吉次」。ご覧になれば、お分かりのように、ぼろぼろで今にも壊れそうです。内容は、禅宗系である寺院関係の文書の八割が文章で詩や漢文。残り二割が美しいひらがなの詩など。何種類かのいくつもの筆跡で書かれています。最後に書かれた方がいちばん字が下手です。字が下手なだけでなく、詩も創りかけで間違えている。字などはたとえば何回も「鼎」という字を書き損じて、困っているところがあります。これなどはまさに貴重なことです。それまでの字は、非常に美しい字です。そして本文とは同一ではないのです。最後にこれらを綴じて、『東日流外三郡誌二百十巻』となっています。

p16
とにかく秋田孝季は書物より下のレベルの文書・伝承・言葉をすべて記録するという、記録のマニアというか天才というか、東日流外三郡誌はそういう形でできている。この本は、お寺の記録をそのままもらってきて、それに表紙を付けて「東日流外三部誌二百十巻」にしています。それで、これはわたしが求めていた『東日流外三郡誌」の寛政原本である。そのように確信しました。

p20
孝季は吉次やその妻となった妹のりくの協力で、各地のお寺・神社や旧家を回り、残っている文書類を書き写し始める。それが『東日流外三郡誌』である。寛政二年ぐらいから始めたようです。ところが、ほぼ完成したというときに火事にあう。秋田孝季がいた秋田の日和山という場所。わからないという話でしたが、場所もわたしは行って確かめました。ぐうぜん最初に尋ねた神社が「わたしのところが土崎です。」と、言われました。そこに秋田孝季がいたのですが、火事というのは怖いですね。とうぜん秋田孝季が書いた彪大な『東日流外三郡誌』は全部焼けてしまった。明治写本には、その時の様子が書かれた手紙が残っている。それによると、吉次が『東日流外三郡誌』を写したいと、つまり副本を作りたいと言ってきたときは、その必要はないと言って断った。ところが作っておいてもらって良かった。あまり熱心に言うので許したが、本当に良かった。わたしの作ったものがなくなった以上、もう副本しか残っていない。写していなかったら、ぜんぶなくなるところだった。同時にわたしは秋田の日和山におれないので、五所川原に移り住みたい。石塔山の神社の片隅にでもおらせてもらいたいとの手紙を送っています。石塔山は不便なところですから吉次の住んでいる飯詰の近くの大光院というお寺の離れを借りて住んで貰うことにした。そこへはりくが煮炊きしたものを運ぶことも可能だったでしょうね。

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『古代に真実を求めて 古田史学論集第十三集』古田武彦「日本の未来―日本古代史論」

p53-54
だから天台文書というのは、何も秋田孝季や和田長三郎吉次が仏教に関心があったから、資料を集めたのではない。安日彦・長髄彦の出身地、さらに近畿天皇家で言えば祖先にあたる「始祖」の出身地としての揚子江の下流域の一帯。その浙江周辺の地理が書いてある。きれいに書いてあるのは天台山回りの地名。その地理・地名にかれらは関心があった。それに関心を持っていた和田長三郎吉次がその資料を手に入れた。だから天台の文書を貰ってきて、本当は写そうと思った。当のお寺は禅宗に代わっていて天台文書は要らない。持って行けということになった。それで持って行って表紙を付けた。他の例も『なかった』(第六号)にあげてあります。『東日流外三郡誌』には、そのような文書はたくさんあるから不思議に思わなかった。しかし見たことがない人は、中身と表紙はまったく違うから、これはおかしいと考えても不思議ではない。形だけを見れば一応もっともだ。しかし内容はぜんぜんそうではなかった。自分たちの祖先に当たる安日彦・長髄彦。その安日彦・長髄彦の始祖にあたる「佐(さる)」。その「佐(さる)」探しのために高砂族がいたという天台文書を手に入れようとした。しかし禅宗の寺で要らないと言われたから、貰ってきて表紙を付けた。こういう性質のものだった。

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お寺の記録をそのままもらってきて、それに表紙を付けて「東日流外三部誌二百十巻」にしています」と言うが、第十一集p20で書いているように、副本は吉次らが書写したはずではないのか?ならば「何種類かのいくつもの筆跡で書かれています」などというのはオカシイ。日和山の火災で孝季手元の「原本」は焼失。吉次らが書写した「副本」が残ったのだから、何種類かのいくつもの筆跡で書かれています」というのは矛盾している。

『東日流外三郡誌 二百十巻』書影 多元的古代サイトへのリンク

2020-09-08 (Tue)

『東日流外三郡誌』が車力村に横流しされた経緯

『東日流外三郡誌』が車力村に横流しされた経緯

『津軽発『東日流外三郡誌』騒動』p104-105----------------------------------------------------A氏は、東日流外三郡誌という書名は明かさなかった。私が、それが和田喜八郎から持ちこまれたものをA氏がコピーし、手許に残したものであることに気づいたのは、平成五年になってからであった。東日流外三郡誌は和田喜八郎製作の偽書であるという、季刊邪馬台国誌の糾弾がはじまってからである。私は、東日流外三郡誌を入手こそした...

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『津軽発『東日流外三郡誌』騒動』p104-105
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A氏は、東日流外三郡誌という書名は明かさなかった。私が、それが和田喜八郎から持ちこまれたものをA氏がコピーし、手許に残したものであることに気づいたのは、平成五年になってからであった。東日流外三郡誌は和田喜八郎製作の偽書であるという、季刊邪馬台国誌の糾弾がはじまってからである。

私は、東日流外三郡誌を入手こそしたが、直観的に信憑性に疑念をいだき播くことをしていなかった。

私が編者豊島勝蔵氏を訪問し、A氏宅での前述の体験を話題にした時、豊島氏は、次のような経緯を明かしてくれた。

昭和四十年代の後半でも、コピー機が珍しい時代で、どこにでもあるというものではなかった。土地家屋調査士のA氏は商売がらコピー機を所有していた。和田は自作の原本ではなく、コピーしたものを市浦村に持ちこむために、一部しかコピーを取らない約束でA氏にコピーを取ることを依頼した。
しかし、A氏は約束を違え、複数部数のコピーを取り、自分の手許にも残したのである。狡猾というべきか、卑劣というべきか。A氏はそのコピーを車力村史編者工藤達氏に横流しした。これによって、昭和四十八年十二月二十五日に刊行された「車力村史」に東日流外三郡誌が引用されていたのである。どれ位の金銭が授受されたかは不明である。

このことが発覚し、A氏は市浦村史編纂委員を解任された。市浦村では、昭和四十六年頃から、和田喜八郎が小出しに持ちこんだ東日流外三郡誌をその都度、金を払いコピーを取り、村おこしのための村史の編集に着手していた。しかし、和田からの文書が和田の筆跡に似ていること、コピーしか見せないことに疑念を持ったが、車力村史に先をこされたことから発刊をいそぎ、昭和五十年四月一日、東日流外三郡誌の一部を市浦村史資料編上巻として公刊したのである。

以上のことだけで、私の千坂氏に話すことは終った。失望をかったかもしれない。

千坂氏はこの機会に飯詰の高館城を見てから小泊まで歩をのばしたいということだった。
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本文中「A」は氏名を明記。拙ブログ「『東奥日報』の1992年8月29日の記事」中の「B氏」と同一人物である。


2020-09-02 (Wed)

古田氏が口にした恩師の名前について谷野氏は

古田氏が口にした恩師の名前について谷野氏は

『季刊邪馬台国57号』谷野満氏「特別寄稿 ルール違反をしたのは誰か ―古田武彦氏に答える―」p23---------------------------------------------------しかしながら、貴方は故原田隆吉先生や本多光太郎先生の名前を軽々しく持ち出すべきではないと思う。原田先生(『季刊邪馬台国』55号の拙文中のA名誉教授のことである)は貴方を紹介したことをご自分の責任として大変重く受け留めておられた立派な先生であった。〈中略〉この間、...

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『季刊邪馬台国57号』谷野満氏「特別寄稿 ルール違反をしたのは誰か ―古田武彦氏に答える―」p23
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しかしながら、貴方は故原田隆吉先生や本多光太郎先生の名前を軽々しく持ち出すべきではないと思う。原田先生(『季刊邪馬台国』55号の拙文中のA名誉教授のことである)は貴方を紹介したことをご自分の責任として大変重く受け留めておられた立派な先生であった。〈中略〉
この間、貴方が『東日流外三郡誌』の真贋論争の真相を原田先生にお話していたとは考えられない。なぜならば、問題の新聞記事掲載の経過や、それに対して筆者が反論した経緯に関する筆者の報告を聞かれた原田先生は猛暑のさなかにもかかわらず即刻筆者の研究室まで足を運ばれ、しみじみと「古田君は若い頃は親鸞の研究で立派な成果を上げた優秀な学者でした。それがどうしてこのような行動を取るようになったのか自分には理解できません。いずれにしても大変ご迷惑をおかけしたことを深くお詫び致します」と深々と頭を下げられました。このような出来事を貴方はご存じではあるまい。貴方は貴方が敬愛した先輩の御霊前でも平気で嘘をつくことが出来るのであろうか?これが原田先生の名前を軽々しく持ち出さないで貰いたいと願う筆者の心情である。
本多光太郎先生は真理の探求を何よりも大事とされ、詭弁を嫌われた方である。本田(ママ)先生がもしご存命であれば、「鉄剣調査」の際に筆者がとった態度は間違っていないとから頑張りなさいと激励されたことと信じている。
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これに対して古田氏が再反論を試みたかどうかは承知していない。

2020-09-01 (Tue)

終戦前後、喜八郎氏は飯詰にいた!?

終戦前後、喜八郎氏は飯詰にいた!?

『季刊邪馬台国51号』編集部「『東日流外三郡誌』が偽書である状況証拠」p58-59---------------------------------------------------しかし、昭和生まれの、中野学校出身者はいない。また、和田喜八郎氏の親戚の人たちの話でも、和田喜八郎氏が、学校へ行っていたということはないという。当時を知る人たちの話では、昭和十五年~昭和二十三年のあいだ、和田喜八郎氏は、飯詰に住んでいたという。-------------------------------...

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『季刊邪馬台国51号』編集部「『東日流外三郡誌』が偽書である状況証拠」p58-59
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しかし、昭和生まれの、中野学校出身者はいない。また、和田喜八郎氏の親戚の人たちの話でも、和田喜八郎氏が、学校へ行っていたということはないという。当時を知る人たちの話では、昭和十五年~昭和二十三年のあいだ、和田喜八郎氏は、飯詰に住んでいたという。
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不思議なことに、喜八郎氏自身が書いている自称軍歴について、それが正しいとする証言は親戚の方や地元の方から出てこない。喜八郎氏の〝軍装写真〟1枚が『新・古代学 第2集』p106に掲げられているが、これを以て軍歴の偽り無きを証明したつもりなのか?
2020-08-31 (Mon)

藤本光幸氏、西暦と和暦とを混同して「偽書説」を〝誤謬〟と!

藤本光幸氏、西暦と和暦とを混同して「偽書説」を〝誤謬〟と!

『季刊邪馬台国93号』原田実氏「『東日流外三郡誌』近年の動向」p134--------------------------------------------------- 西暦と元号のはざまで さて、古田武彦氏の支援組織の機関紙『多元』69号には、藤本光幸氏が「平成15年に東奥日報社の斉藤光政記者に送った手紙の内容」なるものが資料として掲載されている。その中で藤本氏は『東奥日報』に掲載された『三郡誌』批判記事について証人の証言に誤りがあると主張する。 ま...

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『季刊邪馬台国93号』原田実氏「『東日流外三郡誌』近年の動向」p134
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 西暦と元号のはざまで

 さて、古田武彦氏の支援組織の機関紙『多元』69号には、藤本光幸氏が「平成15年に東奥日報社の斉藤光政記者に送った手紙の内容」なるものが資料として掲載されている。その中で藤本氏は『東奥日報』に掲載された『三郡誌』批判記事について証人の証言に誤りがあると主張する。
 まず藤本氏は故・和田喜八郎の親族(原文・実名、ここでは仮にA氏とする)が「古文書が落ちてきたとされる四十七年ごろ私はこの家に住んでいましたが。(ママ)そんな出来事はありませんでした」と証言したことに対し、次のように述べる。
 「古文書が天井から落ちてきたのは、昭和二十二年頃であり、しかもその頃、Aは和田喜八郎の隣に住んでおり、屋敷の境界争いの事で、和田喜八郎と訴訟をしております。」 「したがってAは、古文書が落ちてきたとされる、その当時住んでいません。」
 また、安本美典氏がやはりA氏の 「存在しない文書がありもしない天井を突き破るわけがありません」 という証言をとりあげていることに対し、次のように述べる。
 「(安本氏は)『和田家文書』の落下が昭和二十二年八月であることを知らないで、昭和四十七年ころと思っているのです。そのような誤謬があるのです。」
 だが、この件で誤謬を犯しているのは『東奥日報』紙や安本氏ではなく、藤本氏の方である。A氏の証言にいう「四十七年ごろというのは西暦で一九四七年のことだ。つまり昭和では二十二年にあたる。一方、藤本氏が 「四十七年ごろ」について「その頃」起きたとみなす和田喜八郎とA氏との訴訟は昭和四十七年(西暦一九七二)頃の事柄である(第一、一九四七年にはA氏はまだ子供で訴訟をするどころではない)。
 つまり、藤本氏は西暦で書かれた証言を元号(昭和)で書かれたものと読み違えて論難しているのだ。現在の新聞記事では特にことわりがないかぎり、年号は西暦で示すのが常識なのだが、藤本氏はそれを理解していなかったようだ。
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以下、本日ツイートより。
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twitter 午後1:49 · 2020年8月31日
この『多元69号』は2005年9月。『季刊邪馬台国』51号以降、さんざん取り上げられてきた「和田家文書」落下の時期について藤本氏が全く把握していないことには驚きしか。51号から10年以上を経ています。「四十七年」は1947年のこと。西暦と和暦とを混同した上に「偽書派」の主張を全く知らないとは!
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twitter 午後10:33 · 2020年8月31日
この話を最初に知ったのはYahoo!掲示板時代でした。とある偽書派の方(確かには覚えていませんが原田実氏かも)の書き込みでした。その時は俄には信じられなくて脳内保留。『季刊邪馬台国』にも掲載されていたのですが読んでいませんでした。1993/6/1のNHK「ナイトジャーナル」も見ていないとか? --------------------------------------------------- twitter 午後10:37 · 2020年8月31日 藤本氏のこの文は『多元69号』は2005年9月掲載ですから、75歳で亡くなる前月ということに。10年以前の記憶が曖昧になっていた可能性もあるかも知れませんが、西暦と和暦を混同した上で隣家との境界争いについて言及していますから、認知機能低下でもなさそうです。ホントに知らなかったんですね、、、 --------------------------------------------------- twitter 午後10:40 · 2020年8月31日 「擁護派」あるいは「偽書説」に懐疑的な人に出会って思うことは、偽書説がどれほど多くの根拠に基づいているのか?ということを知らない!という点です。原田実氏の「『東日流外三郡誌』近年の動向」によれば、古田氏はこの落下の時期の混乱を〝誤記 誤植〟と決めつけているんですね。93号p136。 ---------------------------------------------------
twitter 午後10:43 · 2020年8月31日 そのような説明は少なくとも「偽書派」の人には通用しないと思います。1975年の市浦版『東日流外三郡誌』「出版に薦言す」では喜八郎氏が「小学生の頃」「私の父はひところこれを気味悪いものとして消却しようとした時、祖母に強く叱られた事があった」と明記してあります。 --------------------------------------------------- twitter 午後10:47 · 2020年8月31日 続けて「父と相談して、この箱を開いたのが昭和三十二年の春であった」とも。1975年時点では既に家伝の古文書について小学生だった喜八郎氏初め家族が知っており、s32になってから「箱を開いた」!これがどうして〝誤記 誤植〟で説明できるのか?驚くしかありません。 --------------------------------------------------- twitter 午後10:53 · 2020年8月31日 『新・古代学 第8集』p50に書かれてあるとのこと。つまり、古田派内部の人向けのアナウンスなのでしょう。会の人達はそれで納得するのかも知れません。何しろ藤本氏ですらそのような誤認に陥っているのですから一般会員の方が多くの「偽書派」の論考を読んでいるなど期待するほうがムリなのかも。
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2020-08-30 (Sun)

和田喜八郎氏「一万点を超える古文書」

和田喜八郎氏「一万点を超える古文書」

『季刊邪馬台国55号』p123『秋田さきがけ』一九九四年七月一日(金)の記事ゆらぐ町史 和田家文書の波紋・田沢湖町真贋論争の真っただ中「天井裏から次々と文書」これに対して文書の所有者である当の和田さんはどうか―。「東日流外三郡誌は借りていったはずの公民館に捨てられたり、役場職員が紛失したりして現在は二冊しか残っていない。報道では、俺が紙を古く見せるためにコーヒーをせんじて黒く見せたのだと言っているが、そん...

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『季刊邪馬台国55号』p123
『秋田さきがけ』一九九四年七月一日(金)の記事

ゆらぐ町史 和田家文書の波紋・田沢湖町
真贋論争の真っただ中「天井裏から次々と文書」

これに対して文書の所有者である当の和田さんはどうか―。「東日流外三郡誌は借りていったはずの公民館に捨てられたり、役場職員が紛失したりして現在は二冊しか残っていない。報道では、俺が紙を古く見せるためにコーヒーをせんじて黒く見せたのだと言っているが、そんなことをしておれに何のメリットがあるのか。一万点を超える古文書も筆跡は何十人分もあるし、一生かかっても一人で作り上げられるものではない」
だが、こうした論争をよそに、和田家の天井裏からはその後も次々に文書の発見が相次いだ、という。田沢湖町の伝説の内容を塗り替えた「丑寅日本記」は平成三年の発見だ。
田沢湖町は真贋(がん)論争の真っただなかにあるこの「丑寅日本記」を、平成四年八月発行の町史資料編第九集に収録している。


2020-08-30 (Sun)

「日枝神社」と「日吉神社」

「日枝神社」と「日吉神社」

『季刊邪馬台国57号』p118-119「編集部注」日枝山が『古事記』に見えることを述べ、「日枝山」は「比叡山」のことであると言う。続いて「日吉神社」についての沿革を述べた後、「東京の「日枝神社」について、『神道辞典』には、つぎのようにのべられている。「明治元年(一八六八年)の神仏分離までは日吉山王権現・山王社などと称せられたが、神仏分離令にもとづいて日枝神社と社号を改めた。」つまり、それまでは「日吉山王権現」...

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『季刊邪馬台国57号』p118-119「編集部注」

日枝山が『古事記』に見えることを述べ、「日枝山」は「比叡山」のことであると言う。続いて「日吉神社」についての沿革を述べた後、

「東京の「日枝神社」について、『神道辞典』には、つぎのようにのべられている。
「明治元年(一八六八年)の神仏分離までは日吉山王権現・山王社などと称せられたが、神仏分離令にもとづいて日枝神社と社号を改めた。」
つまり、それまでは「日吉山王権現」「山王社」とよばれていたのを、『古事記』の「日枝山」の記載によって、「日枝神社」と社号を改めたとみられる。
このような事情は、青森県市浦村(旧北津軽郡相内村)の「日吉神社」のばあいも、同じであったとみられる。〈中略〉
江戸時代の寛政年間に、一般の人が、奉納額に書くさいに、「日枝神社」などと、もっぱら明治の神仏分離以後に改められた呼び方で書くことがあったのであろうか。また、青森県市浦村のばあいは、明治以降も、「日吉神社」と書かれることはあっても、「日枝神社」と書かれることは無かったように見えるのである。
江戸の寛政時代に、この神社を「日枝神社」と書かれることがあったという確実な証例が欲しいところである。」

と解説している。

2020-08-30 (Sun)

『東奥日報』の1992年8月29日の記事

『東奥日報』の1992年8月29日の記事

『季刊邪馬台国57号』p24なお、古田武彦氏が、「土地の古老」として紹介しているB氏については、『東奥日報』の一九九二年八月二十九日に、つぎのような記事がでている。「詐欺の土地家屋調査士を逮捕   埼玉県警青森県内の他人名義の土地を舞台とした詐欺事件で、埼玉県警生活経済課と飯能署は二十八日、新たに共犯として詐欺容疑で中里町今泉一六六、土地家屋調査士B容疑者(七〇)を逮捕した。調べによると、B容疑者は神奈川...

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『季刊邪馬台国57号』p24

なお、古田武彦氏が、「土地の古老」として紹介しているB氏については、『東奥日報』の一九九二年八月二十九日に、つぎのような記事がでている。

「詐欺の土地家屋調査士を逮捕   埼玉県警
青森県内の他人名義の土地を舞台とした詐欺事件で、埼玉県警生活経済課と飯能署は二十八日、新たに共犯として詐欺容疑で中里町今泉一六六、土地家屋調査士B容疑者(七〇)を逮捕した。調べによると、B容疑者は神奈川県南足柄市中沼五九〇、無職C容疑者(七〇)―詐欺容疑で送検済み―と共謀し、平成二年八月ごろから十月にかけて、埼玉県飯能市に住む自営業者Aさん(四八)に中里町の他人の土地をC容疑者の土地と偽って見せ、土地代金など約千六百万円をだまし取った疑い。この詐欺事件の逮捕者はこれで三人目。B容疑者は現地案内や測量代金の請求役をしていた。B容疑者は十五年前にも同様手口の詐欺事件で有罪判決を受けている。」

※古田氏や古賀氏がしばしば証言者としてその名を出す人の記事である。尚、同誌では姓名が明記してあるが、ネット上のこととて一応の配慮として匿名とした。
2020-08-28 (Fri)

古田氏の〝「真贋判別」に明け暮れた日々〟

古田氏の〝「真贋判別」に明け暮れた日々〟

古田氏の『真実の東北王朝』p17-18。---------------------------------------------------わたしは仙台を去ったあと、信州での〝落ちこぼれ教師〟時代を経て、神戸に出、親鸞研究に没頭した。三十代だ。それは、一面では、「偽作判別」の修業時代だった、といっていい。なぜなら、親鸞の自筆本や古写本を探究するさい、その基礎となるのは、次の一点だった。〝これは、偽作ではないか〟。だって、「偽作」を偽作と知らず、本物と...

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古田氏の『真実の東北王朝』p17-18。
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わたしは仙台を去ったあと、信州での〝落ちこぼれ教師〟時代を経て、神戸に出、親鸞研究に没頭した。三十代だ。それは、一面では、「偽作判別」の修業時代だった、といっていい。なぜなら、親鸞の自筆本や古写本を探究するさい、その基礎となるのは、次の一点だった。
〝これは、偽作ではないか〟。
だって、「偽作」を偽作と知らず、本物と思いこんで史料に使ったら、笑い物。結論は、まちがうにきまっている。だから、その検査、慎重な検証が第一の肝要事だ。だが、わたしには、師匠がいなかった。村岡先生はすでに亡い。亡師孤独、自分で、自分の目で、自分の手で、探究するより、他に手はなかったのである。そのため、いろいろの手練手管を学んだ。たとえば、デンシトメーターによる筆跡判別。医学部・理学部・工学部などを歴訪して、発見した方法だった。抜群のきき目があった。
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驚くべき発言と言ってもいいかも知れない。多くの「和田家文書」群に対して偽書派から寄せられる疑念の数々に対して、古田氏がどのような反応をしたのか?真贋論争の全容を知っている者なら、古田氏のこの発言に対して唖然とする思いだろう。

2020-08-17 (Mon)

擁護派にみる確証バイアス

擁護派にみる確証バイアス

仙台市にある聖和学園短期大学の元教授で、仏教研究者と地域おこしの立場から外三郡誌問題に取り組んできた千坂嵃峰さんは、ビリーバーたち、さらには今なお根強く残る擁護派の無責任な姿勢を、心理学で言う「確証バイアス(偏見)の典型例」なのだと厳しく批判し、こう言う。「いくら学問的に説明しても、自分の考えが正しいと思い込んでいる人ですから、ニセ古文書に対する批判もはじめから客観的にとらえるつもりがないんですね。...

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仙台市にある聖和学園短期大学の元教授で、仏教研究者と地域おこしの立場から外三郡誌問題に取り組んできた千坂嵃峰さんは、ビリーバーたち、さらには今なお根強く残る擁護派の無責任な姿勢を、心理学で言う「確証バイアス(偏見)の典型例」なのだと厳しく批判し、こう言う。
「いくら学問的に説明しても、自分の考えが正しいと思い込んでいる人ですから、ニセ古文書に対する批判もはじめから客観的にとらえるつもりがないんですね。(略)『東日流誌』の真作説を主張したり、擁護や信奉する人は、極めて知識不足で、感覚的判断や思い込みで偽書論者を批判するので、レベルが低すぎて論争による学問的進展が望めません。(略)しかし、真作説への具体的反論は、知らない人や信じかけている人への警鐘ともなります。学術書や研究書を装った「ニセ古文書」の引用や拡散には、これからも歯止めを掛けなければなりません。」
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斉藤光政『戦後最大の偽書事件「東日流外三郡誌」』p445-446所引『だまされない東北人のために』本の森、二〇一六年。
hy注)千坂嵃峰=ちさかげんぽう
2020-08-17 (Mon)

『和田家文書』2018年時点の管理者

『和田家文書』2018年時点の管理者

ちなみに、安本美典さんと齊(ママ)藤隆一さんによると、外三郡誌をはじめとする『和田家文書』の現存分の多くは二〇一八年の時点で、藤本光幸さんの妹の竹田郁子さんが管理している。------------------------------------------斉藤光政『戦後最大の偽書事件「東日流外三郡誌」』p435より。...

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ちなみに、安本美典さんと齊(ママ)藤隆一さんによると、外三郡誌をはじめとする『和田家文書』の現存分の多くは二〇一八年の時点で、藤本光幸さんの妹の竹田郁子さんが管理している。
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斉藤光政『戦後最大の偽書事件「東日流外三郡誌」』p435より。

2020-08-17 (Mon)

仏像の首がもげる

仏像の首がもげる

さらに、キヨヱによる決定的な証言もあった。私には彼女の話が騒動のすべてを物語っているように思えた。「盃が見つかった場所から今度は仏像が出るといううわさが立ったので、飯詰の村人数人が喜八郎さんと一緒に石ノ塔の山に行ったことがありました。同行した人から聞いた話ですが、あまり土を掘らないうちに仏像が出てきたそうです。でも、掘り出したとたん、仏像の首がポロッと取れてしまった。村人の一人が〝喜八郎さん、首が...

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さらに、キヨヱによる決定的な証言もあった。私には彼女の話が騒動のすべてを物語っているように思えた。
「盃が見つかった場所から今度は仏像が出るといううわさが立ったので、飯詰の村人数人が喜八郎さんと一緒に石ノ塔の山に行ったことがありました。同行した人から聞いた話ですが、あまり土を掘らないうちに仏像が出てきたそうです。でも、掘り出したとたん、仏像の首がポロッと取れてしまった。
村人の一人が〝喜八郎さん、首がもげた〟と言うと、即座に〝うん、それは前からもげそうだったんだ〟と返したそうです。みんな笑うしかなかったと言っていました。喜八郎さんが自分で作った仏像を事前に埋めておき、自分で見つけていたということですよね。仏像が出るなんてうわさを広めたのも喜八郎さん自身なんですから、本当に笑い話。自作自演でしょう。それが、斉藤さんが知りたいという役小角騒動というものの真相なんです」
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斉藤光政『戦後最大の偽書事件「東日流外三郡誌』第十三章 はんかくさい p270-271
2020-08-17 (Mon)

斉藤光政氏曰く、

斉藤光政氏曰く、

「正しいか、正しくないか、必要か、必要でないか。こうした大事なことを自分の頭で考えることを怠ってきた日本人独特の前例主義。そして、主体性のない横並びの論理が古文書商法のつけ込む隙きだった……。齋藤と偽書研究家の言葉はそう告げていた。外三郡誌という深い井戸の底が見えてきたような気がした。」『戦後最大の偽書事件 「東日流外三郡誌」』第八章 古文書商法p171より抜粋。...

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「正しいか、正しくないか、必要か、必要でないか。こうした大事なことを自分の頭で考えることを怠ってきた日本人独特の前例主義。そして、主体性のない横並びの論理が古文書商法のつけ込む隙きだった……。齋藤と偽書研究家の言葉はそう告げていた。
外三郡誌という深い井戸の底が見えてきたような気がした。」

『戦後最大の偽書事件 「東日流外三郡誌」』第八章 古文書商法p171より抜粋。
2020-08-15 (Sat)

『大東亜戦争終結ノ詔書』

『大東亜戦争終結ノ詔書』

朕深ク世界ノ大勢ト帝國ノ現狀トニ鑑ミ非常ノ措置ヲ以テ時局ヲ收拾セムト欲シ茲ニ忠良ナル爾臣民ニ告ク朕ハ帝國政府ヲシテ米英支蘇四國ニ對シ其ノ共同宣言ヲ受諾スル旨通告セシメタリ抑ゝ帝國臣民ノ康寧ヲ圖リ萬邦共榮ノ樂ヲ偕ニスルハ皇祖皇宗ノ遺範ニシテ朕ノ拳々措カサル所曩ニ米英二國ニ宣戰セル所以モ亦實ニ帝國ノ自存ト東亞ノ安定トヲ庻幾スルニ出テ他國ノ主權ヲ排シ領土ヲ侵スカ如キハ固ヨリ朕カ志ニアラス然ルニ交戰已ニ四...

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朕深ク世界ノ大勢ト帝國ノ現狀トニ鑑ミ非常ノ措置ヲ以テ時局ヲ收拾セムト欲シ茲ニ忠良ナル爾臣民ニ告ク

朕ハ帝國政府ヲシテ米英支蘇四國ニ對シ其ノ共同宣言ヲ受諾スル旨通告セシメタリ

抑ゝ帝國臣民ノ康寧ヲ圖リ萬邦共榮ノ樂ヲ偕ニスルハ皇祖皇宗ノ遺範ニシテ朕ノ拳々措カサル所
曩ニ米英二國ニ宣戰セル所以モ亦實ニ帝國ノ自存ト東亞ノ安定トヲ庻幾スルニ出テ他國ノ主權ヲ排シ領土ヲ侵スカ如キハ固ヨリ朕カ志ニアラス
然ルニ交戰已ニ四歳ヲ閲シ朕カ陸海將兵ノ勇戰朕カ百僚有司ノ勵精朕カ一億衆庻ノ奉公各ゝ最善ヲ盡セルニ拘ラス戰局必スシモ好轉セス
世界ノ大勢亦我ニ利アラス
加之敵ハ新ニ殘虐ナル爆彈ヲ使用シテ頻ニ無辜ヲ殺傷シ慘害ノ及フ所眞ニ測ルヘカラサルニ至ル
而モ尚交戰ヲ繼續セムカ終ニ我カ民族ノ滅亡ヲ招來スルノミナラス延テ人類ノ文明ヲモ破却スヘシ
斯ノ如クムハ朕何ヲ以テカ億兆ノ赤子ヲ保シ皇祖皇宗ノ神靈ニ謝セムヤ
是レ朕カ帝國政府ヲシテ共同宣言ニ應セシムルニ至レル所以ナリ
朕ハ帝國ト共ニ終始東亞ノ解放ニ協力セル諸盟邦ニ對シ遺憾ノ意ヲ表セサルヲ得ス
帝國臣民ニシテ戰陣ニ死シ職域ニ殉シ非命ニ斃レタル者及其ノ遺族ニ想ヲ致セハ五内爲ニ裂ク
且戰傷ヲ負ヒ災禍ヲ蒙リ家業ヲ失ヒタル者ノ厚生ニ至リテハ朕ノ深ク軫念スル所ナリ
惟フニ今後帝國ノ受クヘキ苦難ハ固ヨリ尋常ニアラス
爾臣民ノ衷情モ朕善ク之ヲ知ル
然レトモ朕ハ時運ノ趨ク所堪ヘ難キヲ堪ヘ忍ヒ難キヲ忍ヒ以テ萬世ノ爲ニ太平ヲ開カムト欲ス
朕ハ茲ニ國體ヲ護持シ得テ忠良ナル爾臣民ノ赤誠ニ信倚シ常ニ爾臣民ト共ニ在リ
若シ夫レ情ノ激スル所濫ニ事端ヲ滋クシ或ハ同胞排擠互ニ時局ヲ亂リ爲ニ大道ヲ誤リ信義ヲ世界ニ失フカ如キハ朕最モ之ヲ戒ム
宜シク擧國一家子孫相傳ヘ確ク神州ノ不滅ヲ信シ任重クシテ道遠キヲ念ヒ總力ヲ將來ノ建設ニ傾ケ道義ヲ篤クシ志操ヲ鞏クシ誓テ國體ノ精華ヲ發揚シ世界ノ進運ニ後レサラムコトヲ期スヘシ
爾臣民其レ克ク朕カ意ヲ體セヨ

御名御璽

昭和二十年(1945)八月十四日

内閣総理大臣鈴木貫太郎


放送は昭和20年8月15日正午。from Wikipedia

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8E%89%E9%9F%B3%E6%94%BE%E9%80%81