「魏志倭人伝」への旅 ブログ版

邪馬台国研究の基本文献「魏志倭人伝」とその関連史書を探求する

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2020-06-01 (Mon)

司馬朗は司馬懿の長兄

司馬朗は司馬懿の長兄

『三国志』ファン、通の人からは〝何を今更〟と失笑を買いそうだが、『魏志』司馬朗伝(筑摩Ⅰp448-)まで読み進んできて裴注にそのことを知った。興味深かったのは、司馬朗伝には司馬懿の兄であることに触れていないこと。司馬彪『續漢書』「序伝」を引いての裴注である。司馬懿と言えば晋王朝の実質的な始祖。陳寿が『三国志』を著したのも晋王朝下であることが何か影響しているのか?『三国志』に疎い者としては?マークが付くのみ...

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『三国志』ファン、通の人からは〝何を今更〟と失笑を買いそうだが、『魏志』司馬朗伝(筑摩Ⅰp448-)まで読み進んできて裴注にそのことを知った。

興味深かったのは、司馬朗伝には司馬懿の兄であることに触れていないこと。司馬彪『續漢書』「序伝」を引いての裴注である。

司馬懿と言えば晋王朝の実質的な始祖。陳寿が『三国志』を著したのも晋王朝下であることが何か影響しているのか?『三国志』に疎い者としては?マークが付くのみである。

司馬朗伝の終りには朗の弟・司馬孚について短くも触れているのにすぐ下の弟である司馬懿との関係については言及しない。

『三国志』中には当然のごとく司馬懿が各所に出てくる。しかし司馬懿の伝は立てられていない。張華が陳寿に「あとは晋書を頼むだけだ」と語ったことが『晋書』陳寿伝に見えているが、晋王朝の実質的始祖である宣帝司馬懿について陳寿は何かものする意図があったのかなかったのか、、、




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2020-05-26 (Tue)

蒋済伝 建安十三年の疫病

蒋済伝 建安十三年の疫病

『魏志』蒋済伝(筑摩Ⅰp434)を読んでいるが、建安十三年(208)の疫病が出てくる。曹操の荊州征討の年であり、もちろんこの時の「疫病」とは、例の「赤壁の戦い」の際に流行して魏軍敗退の一要因となったとされる疫病のことである。蒋済伝の原文を「漢籍電子文献」から引く。【建安十三年,孫權率眾圍合肥。時大軍征荊州,遇疾疫,唯遣將軍張喜單將千騎,過領汝南兵以解圍,頗復疾疫。】いつもながらの拙い訳出を以下に。〈拙訳〉建安...

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『魏志』蒋済伝(筑摩Ⅰp434)を読んでいるが、建安十三年(208)の疫病が出てくる。曹操の荊州征討の年であり、もちろんこの時の「疫病」とは、例の「赤壁の戦い」の際に流行して魏軍敗退の一要因となったとされる疫病のことである。

蒋済伝の原文を「漢籍電子文献」から引く。
【建安十三年,孫權率眾圍合肥。時大軍征荊州,遇疾疫,唯遣將軍張喜單將千騎,過領汝南兵以解圍,頗復疾疫。】

いつもながらの拙い訳出を以下に。
〈拙訳〉
建安十三年,孫權は眾を率ひて合肥を圍む。時に大軍は荊州を征すも,疾疫に遇ひ,唯(ただ)將軍張喜を遣はし單(ひとり)千騎を將(ひき)ひて,過ぐるに汝南の兵を領し以て圍みを解くも,頗(すこぶ)る疾疫を復す。

大軍とは勿論、曹操率いる魏軍のこと。ここには赤壁の戦いそのものは記されていない。

大方『魏志』に於ての「赤壁」の記述は薄く、『呉志』に於て豊かであることは察するに難くはない。しかし、〝船を焼く〟話は武帝紀には無く、郭嘉伝に【後太祖征荊州還,於巴丘遇疾疫,燒船】とあるくらいでその詳細は専ら『呉志』による。

郭嘉伝にしても、読みようでは〝疫病に遭ったから船を焼いた〟と読めなくもない。つまり防疫のためである。

「赤壁」で勝ったのは南軍(呉軍)であることは間違いないが、北軍(魏曹操の軍)が敗れた相手は南軍ではなく「疫病」だったと言っても過言ではないのかもしれない。

2020/5/27訂正)「南軍(呉蜀の連合軍)」と書いたが、建安十三年は劉備はまだ蜀に入っておらず誤り。よって訂正。劉備が劉璋を降して成都に入るのは建安十九年(214)のこと。
2020-05-19 (Tue)

「以北」に対象は含まれるか?

「以北」に対象は含まれるか?

孫栄健氏の『邪馬台国の全解決』125-126頁に、『三国志』中の以北・以東・以南・以西の全用例を拾いだして検証しているが、孫栄健氏の結論としては、対象の地名が「文の指事範囲に含むことが確認できる」という。普通の解釈通りの結果となった訳だ。...

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孫栄健氏の『邪馬台国の全解決』125-126頁に、『三国志』中の以北・以東・以南・以西の全用例を拾いだして検証しているが、孫栄健氏の結論としては、対象の地名が「文の指事範囲に含むことが確認できる」という。

普通の解釈通りの結果となった訳だ。


『邪馬台国の全解決』について * by kouhyoujin
孫栄健氏は『邪馬台国の全解決』において、以北・以東・以南・以西の全用例を拾いだし、対象の地名が「文の指事範囲に含むことが確認できる」と結論しているが、検証などしていなかったと記憶しております。
納得できる説明などありましたか?

Re: kouhyoujin 様へ * by hyena_no_papa
おはようございます。
>kouhyoujin
さんって、あの「kouhyoujin」さんですか?Yahoo!掲示板時代にお相手くださった!

もしそうならお懐かしいことです(^^;)

>説明などありましたか?

鋭いですね(^^;)

孫栄健氏は倭人伝の他に8例拾い上げていますね。その上で、「という」をお汲みいただければと思います(^^;)

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2020-05-17 (Sun)

『魏志』袁渙伝「書籍を大いに収集し」

『魏志』袁渙伝「書籍を大いに収集し」

ーーーーーーーーーーーーーーーーーー魏國初建,為郎中令 ,行御史大夫事。渙言於太祖曰:「今天下大難已除,文武並用,長久之道也。以為可大收篇籍,明先聖之教,以易民視聽,使海內斐然向風,則遠人不服可以文德來之。」太祖善其言。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーどこから収集した?※筑摩Ⅰp326...

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魏國初建,為郎中令 ,行御史大夫事。渙言於太祖曰:「今天下大難已除,文武並用,長久之道也。以為可大收篇籍,明先聖之教,以易民視聽,使海內斐然向風,則遠人不服可以文德來之。」太祖善其言。
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どこから収集した?

※筑摩Ⅰp326
2020-05-14 (Thu)

王脩の家にも書物が数百巻!

王脩の家にも書物が数百巻!

『魏志』王脩伝ーーーーーーーーーーーーーーーーーー太祖破鄴,籍沒審配等家財物貲以萬數。及破南皮,閱脩家,穀不滿十斛,有書數百卷。太祖歎曰:「士不妄有名。」乃禮辟為司空掾,行司金中郎將,遷魏郡太守。ーーーーーーーーーーーーーーーーーー古典を読んでいないと当時は何のお役にも立てなかったようだ、、、※筑摩Ⅰp335...

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『魏志』王脩伝
ーーーーーーーーーーーーーーーーーー
太祖破鄴,籍沒審配等家財物貲以萬數。及破南皮,閱脩家,穀不滿十斛,有書數百卷。太祖歎曰:「士不妄有名。」乃禮辟為司空掾,行司金中郎將,遷魏郡太守。
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古典を読んでいないと当時は何のお役にも立てなかったようだ、、、

※筑摩Ⅰp335

2020-05-14 (Thu)

呂布の軍中に書籍数百巻!

呂布の軍中に書籍数百巻!

『魏志』袁渙伝 裴注ーーーーーーーーーーーーーーーーーー袁氏世紀曰:布之破也,陳羣父子時亦在布之軍,見太祖皆拜。渙獨高揖不為禮,太祖甚嚴憚之。時太祖又給眾官車各數乘,使取布軍中物,唯其所欲。眾人皆重載,唯渙取書數百卷。資糧而已,眾人聞之,大慚。渙謂所親曰:「脫我以行陳,令軍發足以為行糧而已,不以此為我有。由是厲名也,大悔恨之。」太祖益以此重焉。ーーーーーーーーーーーーーーーーーー筑摩Ⅰp324太祖は敗れ...

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『魏志』袁渙伝 裴注
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袁氏世紀曰:布之破也,陳羣父子時亦在布之軍,見太祖皆拜。渙獨高揖不為禮,太祖甚嚴憚之。時太祖又給眾官車各數乘,使取布軍中物,唯其所欲。眾人皆重載,唯渙取書數百卷。資糧而已,眾人聞之,大慚。渙謂所親曰:「脫我以行陳,令軍發足以為行糧而已,不以此為我有。由是厲名也,大悔恨之。」太祖益以此重焉。
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筑摩Ⅰp324

太祖は敗れた呂布の軍中からめいめいに好きなものを取らせたが、袁渙だけは書籍数百巻を取っただけだったという。

一武将がこれだけの書籍を持っていたということは、当時から様々に写本が行われていたことを表しているのだろう。南遷した東晋の後を継ぐ劉宋の裴松之があれだけの典籍を注引に用いることができたのも写本ながら一定の書籍の流布があったことを裏付けているのかも知れない。
2020-05-13 (Wed)

もう一つの「赤壁の戦い」~廻護の例~

もう一つの「赤壁の戦い」~廻護の例~

『魏志』夏侯尚伝 黄初三年ーーーーーーーーーーーーーーーーーー黃初三年,車駕幸宛,使尚率諸軍與曹真共圍江陵。權將諸葛瑾與尚軍對江,瑾渡入江中渚,而分水軍于江中。尚夜多持油船,將步騎萬餘人,於下流潛渡,攻瑾諸軍,夾江燒其舟船,水陸並攻,破之。城未拔,會大疫,詔敕尚引諸軍還。益封六百戶,并前千九百戶,假鉞,進為牧。ーーーーーーーーーーーーーーーーーー筑摩(Ⅰp285)の夏侯尚伝を読んでいる限りだが、まるで赤壁...

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『魏志』夏侯尚伝 黄初三年
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黃初三年,車駕幸宛,使尚率諸軍與曹真共圍江陵。權將諸葛瑾與尚軍對江,瑾渡入江中渚,而分水軍于江中。尚夜多持油船,將步騎萬餘人,於下流潛渡,攻瑾諸軍,夾江燒其舟船,水陸並攻,破之。城未拔,會大疫,詔敕尚引諸軍還。益封六百戶,并前千九百戶,假鉞,進為牧。
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筑摩(Ⅰp285)の夏侯尚伝を読んでいる限りだが、まるで赤壁の戦いの再現のように見える。魏軍に疫病が大流行し、結果撤退した点まで似ている。

折を見て読み下しを試みてみよう。

2020/5/25
〈拙訳〉
黃初三年(222),(文帝の)車駕は宛に幸(みゆき)し,(夏侯)尚をして諸軍を率(ひき)ひ曹真と共に江陵を圍(かこ)は使む。(孫)權の將たる諸葛瑾は(夏侯)尚の軍と江を對し,(諸葛)瑾は渡りて江中の渚に入り,而して水軍を江中に分(わか)つ。(夏侯)尚は夜に多く油船を持ち,步騎萬餘人を將(ひき)ひ,下流にて潛(ひそ)かに渡り,(諸葛)瑾の諸軍を攻め,江を夾(はさ)みて其の舟船を燒き,水陸並(なら)びに攻めて,之を破る。城未だ拔けざるに,大疫に會(あ)ひ,(夏侯)尚に詔敕して諸軍を引き還らしむ。封六百戶を益し,前と并(あは)せて千九百戶とし,鉞(まさかり)を假し,進めて牧と為す。

坂口和澄氏の『正史三國志群雄銘銘傳』夏侯尚の項によればこの時の一戦については『魏書』董昭伝、『呉書』潘璋伝、『呉書』諸葛瑾伝それぞれに話の様相が異なる。p128より引用する。
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むしろ負けたのは夏侯尚のほうである。『三国志』は随所に廻護(かいご:わざと事実の直言を避ける。趙翼『廿二史箚記』)するところが見られるが、夏侯尚のこの件もその一例であろう。
勝ったとは思えないこの作戦の後、何故か夏侯尚は領邑六百戸を加増されて計千九百戸となり、荊州の牧に昇進した。
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赤壁の戦いの段の際も思ったが、〝書いてある通りに理解する〟なんてことはかなり難しい。額面通りに受け止めれば矛盾した答えが導かれてしまうから。
2020-05-13 (Wed)

古田氏は言う「学問の名には遠い」と

古田氏は言う「学問の名には遠い」と

古田武彦『古代は輝いていたⅢ 法隆寺の中の九州王朝』225-226頁ーーーーーーーーーーーーーーーーーーとすれば、“推古紀の対大唐外交記事を十年以上(おそらく十二年)くり下げて解すべし"、とするわたしの仮説、それが当をえていること、それがここに決定的な確証をえているのではあるまいか。何よりも、この時点なら、まさに相手国の国名は「大唐」なのであるから。以上で推古朝の対隋外交という、かつて、誰人にも疑われなかった...

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古田武彦『古代は輝いていたⅢ 法隆寺の中の九州王朝』225-226頁
ーーーーーーーーーーーーーーーーーー
とすれば、“推古紀の対大唐外交記事を十年以上(おそらく十二年)くり下げて解すべし"、とするわたしの仮説、それが当をえていること、それがここに決定的な確証をえているのではあるまいか。何よりも、この時点なら、まさに相手国の国名は「大唐」なのであるから。

以上で推古朝の対隋外交という、かつて、誰人にも疑われなかった定説を非とし、推古朝の対唐外交こそ、史上の真実であるとする論証を終わった。

それはまた同時に、近畿天皇家とは別在する、しかも、先住する、九州王朝実在の論証であった。
これを非とする論者は、今後ももちろん存在してよかろう。しかしそのさいは、右の論証の一つ一つに対する反証が必要とせられよう。それなしに従来の通説に依拠しつづけて叙述するとしたら、それは僭越ながら、学問の名には遠いもの、そのようにみなされねばならぬのではあるまいか。

(なお付言する。唐初における推古朝の対唐外交が『旧唐書』などに記載されていないのはなぜか、という問題だ。中国側の史書は、各夷蛮の代表の王者との国交をその夷蛮伝に記すことを常としている。これ以外に、各夷蛮内部の「別国の王」「分流の王」たちが競って中国の天子に遣使したこと、それは当然だ。また、中国側も、これに応答したことであろう。しかし、それらはいちいち史書内に記録されるとは限らない。むしろ、記録されない方が通例なのである。
『旧唐書』は、七世紀段階では「倭国」〈九州王朝〉を代表の王者とみなし、八世紀初頭にいたってはじめて「日本国」〈近畿天皇家〉をもって代表の王者と見なした。ーこの点後述。
それにしても、隋から唐への転換の直後、この新興の唐朝へ遣使した近畿天皇家〈推古朝〉の外交政策は、まことに機敏であると共に、その後の展開〈白村江の戦いなど〉への大きな伏線となった。この点、以下の論述で明らかにされよう。)
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「学問の名には遠い」と言い放つ古田氏ではあったが、この著作から10年を経ずして氏が巻き込まれることになった「東日流外三郡誌」事件における古田氏の言説こそ、「学問の名には遠い」と断じても大過ないと言えよう。

「まさに相手国の国名は「大唐」なのであるから」とするが、ならば舒明2年から4年にかけて「大唐」に遣わされた犬上三田耜についてはどう解釈するのか?三田耜は帰朝の際、高表仁を伴っている。この時点での「十年以上(おそらく十二年)くり下げ」はどうなるのか?説明がつかないと思うが、、、

「別国の王」「分流の王」たち」が「いちいち史書内に記録されるとは限らない」と言いつつ、それでは『隋書』帝紀では「別国」「分流」である倭国(畿内)の遣使が記され、「各夷蛮の代表の王者との国交を」帝紀に記さないのは何故か?

史上の真実であるとする論証」と謳ってはいるが上述のごとく我田引水としか言いようのない論法である。

同日追記)説明不足かも知れないので書き加えておく。犬上君御田耜、矢田部造は隋の大業10年から11年にかけて「大唐」に遣わされている。これを繰り下げれば舒明朝の遣使と相接近してしまうことについてである。

2020-05-12 (Tue)

「テキストエディタでHTMLタグを取り除く方法 正規表現で置換する」

「テキストエディタでHTMLタグを取り除く方法 正規表現で置換する」

https://megasaruma.com/texthtmltag/置換前の文字:<(“[^”]*”|'[^’]*’|[^'”>])*>置換後の文字:つまり置換後の文字は空白にする。あと「正規表現」に☑を入れて「すべて置換」。これで完了!このブログ氏が「世の中には優秀な方がたくさんいらっしゃるので、そういう方を参考にさせていただいてます」と仰るとおり、実に有り難い限りである。5/14追記)例えば「マンガ、アニメと小説(3,126)」というような文字全体を削除する...

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置換前の文字:<(“[^”]*”|'[^’]*’|[^'”>])*>
置換後の文字:

つまり置換後の文字は空白にする。

あと「正規表現」に☑を入れて「すべて置換」。これで完了!

このブログ氏が「世の中には優秀な方がたくさんいらっしゃるので、そういう方を参考にさせていただいてます」と仰るとおり、実に有り難い限りである。


5/14追記)例えば「マンガ、アニメと小説(3,126)」というような文字全体を削除する場合、()内の数字が違っていてもワイルドカードで一括削除が出来る。検索文字を「マンガ、アニメと小説[(].*[)]\n」(\nは改行コード)とし、置換後は空白にすれば、()内の文字が何であっても一括削除が可能。

2020/5/16追記)「サクラエディタ 正規表現サンプル集」は大変役立ちました。私が常用しているエディタとは違いますが、かなり共通して使える部分がありそうです。取り急ぎ御礼を申し上げますm(_ _)m

※上記リンクはMifesのものでした。こちらにも御礼をm(_ _)m




2020-05-11 (Mon)

『魏志』公孫度伝の支石墓?

『魏志』公孫度伝の支石墓?

公孫度伝を読んでいて、?と気になった箇所が。【時 襄平 延里社生大石,長丈餘,下有三小石為之足。或謂度曰:「此漢宣帝冠石之祥,而里名與先君同。社主土地,明當有土地,而三公為輔也。」度益喜。】〈拙訳〉時に襄平県延里の社(やしろ)に大石の生じ,長さ丈餘り,下に三つの小石有りて之を足と為す。或ひは(公孫)度に謂ひて曰く:「此れ漢の宣帝の冠石の祥にして,而るに里名も先君(公孫延)と同じい。社は土地の主にして,當に...

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公孫度伝を読んでいて、?と気になった箇所が。

【時 襄平 延里社生大石,長丈餘,下有三小石為之足。或謂度曰:「此漢宣帝冠石之祥,而里名與先君同。社主土地,明當有土地,而三公為輔也。」度益喜。】

〈拙訳〉
時に襄平県延里の社(やしろ)に大石の生じ,長さ丈餘り,下に三つの小石有りて之を足と為す。或ひは(公孫)度に謂ひて曰く:「此れ漢の宣帝の冠石の祥にして,而るに里名も先君(公孫延)と同じい。社は土地の主にして,當に土地を有し,而して三公を輔と為すは明らか也。」(公孫)度は益(ますま)す喜ぶ。
(筑摩参照)

これは間違いなく支石墓だろう。

筑摩Ⅰp259に、
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注(11)前漢昭帝の時代に泰山郡の萊蕪山で、やはり大きな石がひとりでにつっ立ち、三つの小さな石が足となる異変があった。それは皇帝がのちに即位する瑞兆とされた。
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「ひとりでにつっ立ち」というのは話の潤色だろう。
2020-05-10 (Sun)

『魏志』呂布伝 裴注『英雄記』の「五千餘里」

『魏志』呂布伝 裴注『英雄記』の「五千餘里」

筑摩『三国志』をよんでいるが、『魏志』呂布伝 裴注『英雄記』に「五千餘里」が出てくる。「漢籍電子文献」から原文を。【布,五原人也,去徐州五千餘里,乃在天西北角,今不來共爭天東南之地。】時代は建安年間で後漢末だから古田氏の「魏西晋朝短里説」の対象となる時代では当然ない。しかしちょっと調べてみようと思った。まず五原郡から。『通典』州郡 古雍州 五原郡【去東京二千一十里】唐代の一里は約560m。後漢代414mに...

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筑摩『三国志』をよんでいるが、『魏志』呂布伝 裴注『英雄記』に「五千餘里」が出てくる。「漢籍電子文献」から原文を。

【布,五原人也,去徐州五千餘里,乃在天西北角,今不來共爭天東南之地。】

時代は建安年間で後漢末だから古田氏の「魏西晋朝短里説」の対象となる時代では当然ない。しかしちょっと調べてみようと思った。

まず五原郡から。

『通典』州郡 古雍州 五原郡【去東京二千一十里】

唐代の一里は約560m。後漢代414mに換算すると2720里。

次は徐州。

『通典』州郡 古徐州【後漢並因前代。理於郯,今臨淮郡下邳縣。魏晉亦曰徐州。領郡國七,理彭城,今郡。】

ということなので徐州の位置としては、

『後漢書』郡国志 【徐州東海郡 高帝置。雒陽東千五百里。十三城,戶十四萬八千七百八十四,口七十萬六千四百一十六。郯本國,刺史治。】あたりが参考になるか?

よって徐州~五原郡間は1500+2720=4220里ほど。これを「五千餘里」というのは若干〝盛って〟ると言えようが、遠いことを言いたいがためであるから許容範囲内か。

思い出すのは古田氏と山尾氏の「目くじら論争」。3300里を4000里と表現するのは是か非か。両例とも2割ほどの〝盛り方〟だから、山尾氏の〝目くじらを立てるほどではない〟に軍配を挙げるのが妥当。
2020-05-08 (Fri)

線刻人面土器

線刻人面土器

2005/11/27 13:02    線刻人面土器 by tenchuukun -----------------------------------------------弥生末期の線刻人面土器については設楽先生の研究がありますね。V期中葉から庄内併行の時期に(1)吉備讃岐(2)伊勢湾地域(3)関東に分布していて、以西は山口と熊本に1例づつしか在りません。倭人伝で黥面文身として観察された風俗が何処のものであるか明瞭でしょう。布留期に入って魏晋との交渉を通じて...

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2005/11/27 13:02    線刻人面土器 by tenchuukun
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弥生末期の線刻人面土器については設楽先生の研究がありますね。
V期中葉から庄内併行の時期に
(1)吉備讃岐
(2)伊勢湾地域
(3)関東
に分布していて、以西は山口と熊本に1例づつしか在りません。
倭人伝で黥面文身として観察された風俗が何処のものであるか明瞭でしょう。
布留期に入って魏晋との交渉を通じて中国文化が急速に浸透し、蛮習として捨てられ消えていったものと思います。
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※投稿者ご本人の許諾を得ていないので、ここに掲示していいものかどうか迷ったが、古代史ファンの理解促進に資するものとの私の考えは理解していただけるのではないかと思い、敢えて掲示する次第。
No Subject * by 形名
そうか、線刻人面土器については伊勢湾~関東の類似性には着目して記事にも記載したが、自分では魏志倭人伝との関連付け視点が抜け落ちていましたね。九州、特に北部では該当土器は出ていませんか。
ただ、黒潮流路や、y染色ハプロの流れを考えた時、低緯度島嶼地域人ルーツを排除できない気はします。吉備はともかく、讃岐、伊勢湾は可能性がある。関東も伊勢湾からの2次移動ならば・・・設楽先生はどう考えているんでしょうね?

Re: 形名 様へ * by hyena_no_papa
形名さん、ス、スミマセン(・_・;) 考古学的な話を振られても返答のしようがありません。

>設楽先生はどう考えているんでしょうね?

設楽先生という方もどういう方なのか?全く存じ上げておりません(+_+)

悪しからず、、、


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2020-05-07 (Thu)

『魏志』董卓伝裴注 謝承後漢書「君雖不君,臣不可不臣」

『魏志』董卓伝裴注 謝承後漢書「君雖不君,臣不可不臣」

『魏志』董卓伝裴注-----------------------------------------------謝承後漢書曰:伍孚 字德瑜,少有大節,為郡門下書佐。其本邑長有罪,太守使孚出教,敕曹下督郵收之。孚不肯受教,伏地仰諫曰:「君雖不君,臣不可不臣,明府奈何令孚受教,敕外收本邑長乎?更乞授他吏。」太守奇而聽之。後大將軍何進辟為東曹屬,稍遷侍中、河南尹、越騎校尉。董卓作亂,百僚震慄。孚著小鎧,於朝服裏挾佩刀見卓,欲伺便刺殺之。語闋辭去,卓送...

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『魏志』董卓伝裴注
-----------------------------------------------
謝承後漢書曰:伍孚 字德瑜,少有大節,為郡門下書佐。其本邑長有罪,太守使孚出教,敕曹下督郵收之。孚不肯受教,伏地仰諫曰:「君雖不君,臣不可不臣,明府奈何令孚受教,敕外收本邑長乎?更乞授他吏。」太守奇而聽之。後大將軍何進辟為東曹屬,稍遷侍中、河南尹、越騎校尉。董卓作亂,百僚震慄。孚著小鎧,於朝服裏挾佩刀見卓,欲伺便刺殺之。語闋辭去,卓送至閤中,孚因出刀刺之。卓多力,退卻不中,即收孚。卓曰:「卿欲反邪?」孚大言曰:「汝非吾君,吾非汝臣,何反之有?汝亂國篡主,罪盈惡大,今是吾死日,故來誅姦賊耳,恨不車裂汝於市朝以謝天下。」遂殺孚。   謝承記孚字及本郡,則與瓊同,而致死事乃與孚異也,不知孚為瓊之別名,為別有 伍孚也?蓋未詳之。
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初めて筑摩『三国志』董卓伝を読んでいる。裴注『謝承後漢書』に「主君が主君に価しなくとも、臣下は当然臣下でなければなりません」という訳が。

昔聞いたことのあるフレーズだったので「漢籍電子文献」でその箇所を検索すると【君雖不君,臣不可不臣】とある。

「コトバンク」精選版 日本国語大辞典によれば「孔安国‐古文孝経訓伝序」が出典とあるがその素性など勿論知らない。

「君雖不君,臣不可不臣」とは決していい言葉だとは言えないだろう。なんか現代にも通じるようで悲しいものを感じる。


2020-05-06 (Wed)

「九州王朝説」を真に受ける人

「九州王朝説」を真に受ける人

隋煬帝の「宴東堂詩」という詩について検索しているうちに、「備忘録として」というブログに遭遇した。その一項として「九州王朝」2013-10-15 23:19:52というのがあったので読んでみる。https://blog.goo.ne.jp/yoshinogawa3/e/7df6216be4335667d6a890d76775c219「遣隋使の派遣年次が日本書紀と隋書では異なっている。遣隋使の答礼使である裴世清は、九州までしか訪問せず、大和には行ってない。」「九州王朝説を完全に真正面から...

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隋煬帝の「宴東堂詩」という詩について検索しているうちに、「備忘録として」というブログに遭遇した。

その一項として「九州王朝」2013-10-15 23:19:52というのがあったので読んでみる。
https://blog.goo.ne.jp/yoshinogawa3/e/7df6216be4335667d6a890d76775c219

「遣隋使の派遣年次が日本書紀と隋書では異なっている。遣隋使の答礼使である裴世清は、九州までしか訪問せず、大和には行ってない。」
「九州王朝説を完全に真正面から否定する反論にはまだお目にかかっていないのである。」


こういう認識の方は結構見かける。恐らくは『隋書』に直接当ったことなど無いのかも知れない。古田氏の『失われた九州王朝』の解釈に沿って「裴清の道行き文」を読めば、俀都邪靡堆が九州にあるとは読みようがないことはすぐに分かる。

「まだお目にかかっていない」とは〝物は言いよう〟と言ってもいい。古田氏の行論が如何に我田引水の詭弁強弁に満ちているか、古田氏の著作を繰り返し読んでゆけば大方気がつくことである。フツーの学者研究者専門家は古田説など相手にすることの無益さを直感的に肌で感じるのではないか。安本氏など一部の人々が反論を試みるが、古田氏との議論の「無益さ」を再確認するに終始したろうであることは想像に難くない。

因みに「九州までしか訪問せず、大和には行ってない」とは古田氏の所論(12年のズレ)に相反する。それに、推古紀の記録が全くの捏造であるとするなら、こんなお気楽なことはない。国内に何の記録もない九州王朝を夢想し、細かい記録のある『書紀』を無視するという姿勢は、そもそも歴史の構築という作業になじまない。

このブログ氏の記事を見るに、かなり知的好奇心に溢れているように窺えるが、こういう方が古田説に引きずり込まれる例は、これまで幾つか目にしてきたので驚くには当たらない。

No Subject * by 形名
ひひひ。泣けてくる。ナイス。

Re: 形名 様へ * by hyena_no_papa
形名さん、こんにちわ(^^)

>ひひひ

好きですね~、こういう笑いって(❁´◡`❁)

「磐井王朝の滅亡」(2書p340)と言いながら70年余すると「日出づる処の天子」と誇りやかに宣言(2書p310)しているんだそうです。「天皇家の領域を、内にふくんで」ですね。滅亡した王朝が〝奇跡の復活〟を遂げた!ということなんでしょう。磐井王朝を滅ぼした側が「内に」含まれる!なんてオドロキ以外のなにものでもありません。

『失われた九州王朝』読んだ人、気が付かないんですよね。この不思議さに、、、

古田氏の『失われた九州王朝』について * by レインボー
古田氏の『失われた九州王朝』についての記事、ありがとうございます。

小生も、古田氏の『失われた九州王朝』については批判があります。

そこで、九州倭国については、どのように考えておられますか。特に、旧唐書に倭国は北九州にあったと読めますが。
草々

Re: レインボー 様へ * by hyena_no_papa
レインボーさん、コメントありがとうございますm(_ _)m

>旧唐書に倭国は北九州にあったと読めますが

その「あったと読め」るというのは具体的にどの部分でしょうか?宜しくご案内のほどお願いいたします。

裴清の行路 * by 宮津徳也
巨象に問う蟻一匹です。
「大海の中に在り・・俀に属する『也』」の一文は、華夏に似た秦王国の紹介文を挿入して特筆したのではないでしょうか。したがって道行としては「大海から・・十余国を経て海岸に達す=既にかの都」。方向は対馬・大海と南であり、九州西岸から有明海沿岸へ入ったのでは。このことは魏志の南への並びである不彌国ー投馬国ー邪馬臺国と一致します。
書紀との齟齬は、裴清が九州に来たあくる年(大業4年/608)を推古16年に繰り上げ、17年の裴清が来た大和での出来事を16年のこととしたと思われます。丈六仏光背銘は書紀に合わせて改ざんしたものです。なぜなら裴清は本尊丈六仏のない法興寺で参拝という矛盾があるからです。「畢竟、元興寺に坐(マ)す」のは明年己巳(609年/推古17)だからです。
書紀にとって九州王朝はあってはならない存在ですから、当然隠ぺいされます。奇しくも大和説の盤石の証拠と思われた光背銘が、推古天皇が俀王に附庸する地方王である倭皇(ヤマトノキミ)であることを証明しているとみます。
間違いをご教授いただければ幸いです。

隋書・本紀・煬帝紀 * by 宮津徳也
付け足しです。

大業4(608)年3月、百濟・倭・赤土・迦羅舎国並びに使を遣し方物を貢ず

大業6(610)年正月、倭国、使を遣し方物を貢ず

「推古17(609)年9月、小野妹子らが帰る」で、煬帝紀・推古紀で食い違っています。小野妹子らはこの帝紀の610年の正月に謁見し帰国、実は推古18年の9月に大和に着いたのでしょう。この一年のズレが九州滞在です。つまり裴清が九州に居たのは、608年からあくる609年の6月に難波津に着くまでのほぼ1年、これを抹消したのです。巧妙です。
609年9月難波発の、裴清の送使小野らがが610年正月に朝貢したのでしょう。
隋書もまた俀国=九州を支持しているように思われます。

Re: 宮津徳也 様へ * by hyena_no_papa
宮津徳也様、詳細なコメントをお寄せ下さり、ありがとうございます。

申し訳ないのですが、まず冒頭2行目から5行目までの趣旨が理解できません。

できるだけ『隋書』の記事に沿ってお書きいただければ当方の理解も進むのではないかと愚考いたしますので、宜しくお願いいたします。


古代史でホームスティ * by 宮津徳也
どうも失礼しました。

中国の正史『隋書』に、俀国と書かれた7世紀初頭の日本の、その都の在り処を探求しています。『隋書・俀国伝』には隋王朝の煬帝が文林郎裴世清を俀国に派遣する記事があります。そこに百済に渡り俀国の都に至るルートが書かれています。このルートをたどれば都の位置が分かります。『隋書』には

明年(608年) 上(煬帝)、文林郎裴淸を使として俀国に遣す。百濟を度(ワタ)りて竹島に至る。南に聃羅國を望み、都斯麻(ツシマ)國を經て、逈(ハル)かに大海の中に在り。又東して一支國に至り、又竹斯(チクシ=ツクシ)國に至り、又東して秦王國に至る。其人(秦王国の人)華夏に同じ。夷洲と為すも疑いを明らかにできず。又、十餘國を經て海岸に達っす。竹斯國より東は皆俀に附庸(フヨウ)す。俀王、小徳阿輩臺を遣わし・・既に彼の都に至る。(下手な訳文でゴメン)

通説は百済から彼都まで順次羅列で読んでいきます。「海岸に達す」は御説の通り「海から海岸に達した」でしょう。ですから筑紫から海を東に進み(瀬戸内海)、十餘國を經て難波辺りの海岸に達したと考えるようです。推古の居る大和盆地の飛鳥が難波の海岸からみて「既に彼の都に至る」は多少問題もありますが。それ以上に問題なのは、筑紫より東は「皆、俀に附庸する」、です。皆は当然大和も含みますから(東限は不明)、俀に附庸するのですか。附庸は宗主国に対する語だと理解しています。辞典的には「大国に付き従う国」です。彼の都が俀に附庸するというのは矛盾ですね。

そのため「百済を度り・・逈大海中に"在"り」で切り、次の文から大海中を漕ぐ船から見ての東方向に壱岐・筑紫・十余国・秦王国と並んでいると説明しています。なぜか、秦王国の人が華夏(中国)と同じであり、夷州(台湾を指すか)かとも疑うが明らかにできない、という驚きのエピソードを記録するためです。大海中から東へ航海したのではありません。ですから文章の構造として「不能明"也"」と切っています。「又、十餘國を經て海岸に達っす」は再び大海中から(方角は省略されるも南は明らか)続く行路です。

なんども論じられた問題ですね。これは有明海沿岸説とでもいうのでしょうか、川村さんの論文で教えられましたが、川村さんはこの論を取り下げられているようです。この論を取り入れてもいいですかと伺ったところ「どうぞ」ということでした。ご返信の「趣旨が理解できません」が論争史を承知の上ならこれ以上は・・。「邪馬台国・・集まれ」のころは賑やかでしたが、最近は古代史に関心を持つ人が少ないのか、淋しいですね。ネットサーフインでハイエナさんの名を見つけ、懐かしくて投稿させて頂きました。

Re: 宮津徳也 様へ * by hyena_no_papa
宮津徳也さん、おはようございます。

まず初めに、
>「邪馬台国・・集まれ」のころは賑やかでしたが
とのことで私のHNを既にご存じのようですが、私としては宮津徳也さんのお名前が思い当たりません。多分HNで参加されていたんでしょう。いずれにしてもYahoo!掲示板時代をご存じの方と再会するのは懐かしいことです。

拝見するところ独自の説をお持ちのようですのでそれを大切になさるというのもいいのではないかと思います。

その上で当方の所説に対して疑問等お持ちなのでしょうから要点のみご返信差し上げたいと思います。

まず所謂「裴清の道行き文」については私のホームページで1ページを設けてありますので、そちらをご覧いただきましたら当方の考えるところは理解していただけるのではないかと思います。
「裴清の道行き文」
http://hyenanopapa.obunko.com/haisei_no_michiyukibun.html

川村氏の論考も既にお読みのようですね。お説の中の「方角は省略されるも南は明らか」というのはどこから導き出されるものでしょうか?裴清は概ね東へとしか進んでいないように記述されていると思えるのですが、、、

それと「附庸」の件ですが、以東には竹斯国も含まれますので都のある竹斯国が俀に附庸していることになり矛盾すると考えられます。これも川村氏の既に唱えていることかと思います。

尚、当ブログ中の「「裴清の道行き文」 通説を図示すると・・・」という記事中に、通説の解釈に基づく裴清の辿った行程図を掲載してあります。併せてご覧いただければと思います。
https://hyenanopapa.blog.fc2.com/blog-entry-798.html

ついでに掲示板時代の論争相手の唱える解釈を図にしたものも掲載しております。「「裴清の道行き文」cyber_ek氏による理解」
https://hyenanopapa.blog.fc2.com/blog-entry-797.html

宮津徳也さんも一度手書きでもいいですので自分の解釈を紙の上に描いてみてはいかがでしょうか?勿論『隋書』の文も併せて、、、その図をじっくりと眺めて自分の考えが妥当かどうか思慮してみるというのも、あながち無駄ではないと思います。文字ばかり並べていると、どうしても筋道だった結論に至らないこともありそうですので、、、

長くなりましが、また何か疑問点等ありましたらコメントをお寄せください。3月からはtwitterも同じHNでやっておりますので、そちらもご覧いただければと思います。

取り急ぎ以上ご返信差し上げます。

邪馬台国の位置こそ * by 宮津徳也
早速ご返信をありがとうございます。

> 宮津徳也さんのお名前が思い当たりません
> 独自の説をお持ちのようですのでそれを大切になさるというのもいいのでは

このHNで「Yahoo!掲示板」に投稿していました。もう記憶が定かではないのですが、自分の考えを述べご意見を伺ったとき、あなたは「賛成も支持もできないが、仮説としては成り立ちますよ」と言っていただいたことがあります。これを励みしてずっと古代史に興味を持ち続けてきました。今年で80歳になり気力・体力が衰え、かってのようにはいきません。でも古代史への思いは消えていません、今のところ。自説を大事にする、でいいのですね (^^)。

古田武彦氏も亡くなり、その功罪も歴史に晒されることになりました。皇国史観の残滓を引きづった戦後の史学に、大きなショックを与えたことは間違いないでしょう。その原点ともいえる『魏志倭人伝』の解釈には疑問も多く、「私の邪馬台国」への旅立ちとなりました。学会の重鎮たちの、いわゆる通説はそれ以上に不可解なもので、権威と言われるものの脆弱さに唖然とします。

ところで川村氏も「自竹斯國以東 皆附庸於倭」の位置が「又經十餘國 達於海岸」の後ろであり、ここで切れないというご意見です(かなり以前の話ですが)。つまり定説の読みです。その川村氏が『推古期の謎』の「推古紀の方にも誤りあるいは意図的な書き換えがあるという可能性を考える必要があろう」と指摘されて止まっていますね。小野妹子が帰国(書紀)した翌年正月、「倭国、使を遣し方物を貢ず」(隋書・煬帝紀)るのですから、書紀の書き換えがあったと見ざるを得ず、それを丈六仏光背銘が証明しています。つまり7世紀初頭の歴史は書き換えざるを得ず定説は瓦解します。その局面に気付かれたのではと思っています。

なぜ裴清道行文に拘るかですが、邪馬台国の位置に関係するからです。俀国の都は「邪靡堆に都す 則ち魏志の所謂、邪馬臺なり」。その『魏志倭人伝』は邪馬台国の位置が、近畿でも筑紫でもなく熊本南部と読めるからです。「不彌国の南水行20日投馬国→その南水行水行10日陸行1月邪馬臺」で不彌国から南へ一直線で邪馬臺です。不彌国が定説通り福岡なら邪馬臺は熊本沿岸になります。邪馬臺は熊本ですが、後漢時代や倭の五王の時代は筑紫に、また時に近畿に倭国王(天智など)がいたと思っています。

今の古代史の低調は嵐の前の静けさに思えます。新型コロナに負けず長生きして見届けたいと思っています。twitter拝見しています。ひとまず検察庁法改悪先送りでやれやれですね。では。

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2020-05-04 (Mon)

郷公、亭侯、亭伯

郷公、亭侯、亭伯

『魏志』文帝紀 黄初三年三月【立齊公叡為平原王,帝弟鄢陵公彰等十一人皆為王。初制封王之庶子為郷公,嗣王之庶子為亭侯,公之庶子為亭伯。】〈拙訳〉齊公叡(=明帝)を立てて平原王と為し,帝の弟である鄢(えん)陵公彰等十一人を皆王と為す。封王の庶子を郷公と為し,嗣王の庶子を亭侯と為し,公の庶子を亭伯と為すを初めて制す。5/6追記 『魏志』明帝紀 青龍元年 夏五月 戊寅【丁酉,改封宗室女非諸王女皆為邑主。】〈拙訳〉丁酉...

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『魏志』文帝紀 黄初三年三月
【立齊公叡為平原王,帝弟鄢陵公彰等十一人皆為王。初制封王之庶子為郷公,嗣王之庶子為亭侯,公之庶子為亭伯。】

〈拙訳〉
齊公叡(=明帝)を立てて平原王と為し,帝の弟である(えん)陵公彰等十一人を皆王と為す。封王の庶子を郷公と為し,嗣王の庶子を亭侯と為し,公の庶子を亭伯と為すを初めて制す。

5/6追記
『魏志』明帝紀 青龍元年 夏五月 戊寅
丁酉,改封宗室女非諸王女皆為邑主

〈拙訳〉
丁酉,宗室の女(むすめ)にして諸王の女に非ざるを改封して邑主為す
2020-05-04 (Mon)

景初・正始の頃の遼東は

景初・正始の頃の遼東は

斉王紀 景初三年【夏六月,以遼東東沓縣吏民渡海居齊郡界,以故縱城為新沓縣以居徙民。】【正始元年春二月乙丑,加侍中中書監劉放、侍中中書令孫資為左右光祿大夫。丙戌,以遼東汶、北豐縣民流徙渡海,規齊郡之西安、臨菑、昌國縣界為新汶、南豐縣,以居流民。】【正始五年九月,鮮卑內附,置遼東屬國,立昌黎縣以居之。】遼東の「吏民」「縣民」が渡海して斉州あたりに住み着いたということか。これはもしかして〝僑郡〟の走り?...

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斉王紀 景初三年
【夏六月,以遼東東沓縣吏民渡海居齊郡界,以故縱城為新沓縣以居徙民。】

【正始元年春二月乙丑,加侍中中書監劉放、侍中中書令孫資為左右光祿大夫。丙戌,以遼東汶、北豐縣民流徙渡海,規齊郡之西安、臨菑、昌國縣界為新汶、南豐縣,以居流民。】

【正始五年九月,鮮卑內附,置遼東屬國,立昌黎縣以居之。】

遼東の「吏民」「縣民」が渡海して斉州あたりに住み着いたということか。これはもしかして〝僑郡〟の走り?

東沓縣→新沓縣
汶、北豐縣→新汶、南豐縣

正始五年の記事からすると、鮮卑の南下に伴い遼東属国を置いたということだから、倭の使いも帯方郡から陸路遼東郡を経由して洛陽を目指したとは考えにくいのかも知れない。
2020-05-04 (Mon)

『魏志』高貴郷公紀裴注の「矛」と「戈」

『魏志』高貴郷公紀裴注の「矛」と「戈」

『魏志』高貴郷公紀 甘露五年五月 裴注干寶『晉紀』【濟曰:「然。」乃抽戈犯蹕。】同『魏氏春秋』【成濟 以矛進,帝崩于師。】帝を刺殺した武器は一つなんだろうから、「戈」「矛」は同義で用いられているのだろう。日本の考古学では、例えば銅戈と銅矛は明確に別物として定義されている。細かいことだが、伝える人によって核心に近い部分でも表現に差がある一例かと。※原文は「漢籍電子文献」による。追記)『晋書』文帝紀景元元...

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『魏志』高貴郷公紀 甘露五年五月 裴注干寶『晉紀』
【濟曰:「然。」乃抽戈犯蹕。】

同『魏氏春秋』
【成濟 以矛進,帝崩于師。】

帝を刺殺した武器は一つなんだろうから、「戈」「矛」は同義で用いられているのだろう。日本の考古学では、例えば銅戈と銅矛は明確に別物として定義されている。

細かいことだが、伝える人によって核心に近い部分でも表現に差がある一例かと。

※原文は「漢籍電子文献」による。

追記)『晋書』文帝紀景元元年に【太子舍人成濟 抽戈犯蹕,刺之,刃出於背,天子崩于車中。】という記事があり、ここでは「」である。【刃出於背】の4文字は『魏志』高貴郷公紀と同一。筑摩訳では「その刃は背中にまでつき出た。」。Ⅰp139。
2020-05-04 (Mon)

「洮西之戰」での戦死者、「千數」「萬計」「數萬」

「洮西之戰」での戦死者、「千數」「萬計」「數萬」

『蜀志』張翼伝 延煕十八年(255)【十八年,與衛將軍姜維俱還成都。維議復出軍,唯翼廷爭,以為國小民勞,不宜黷武。維不聽,將翼等行,進翼位鎮南大將軍。維至狄道,大破魏雍州刺史王經,經眾死於洮水者以萬計。翼曰:「可止矣,不宜復進,進或毀此大功。」維大怒。曰:「為蛇畫足。」維竟圍經於狄道,城不能克。自翼建異論,維心與翼不善,然常牽率同行,翼亦不得已而往。景耀二年,遷左車騎將軍,領冀州刺史。六年,與維咸在劍閣...

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『蜀志』張翼伝 延煕十八年(255)
【十八年,與衛將軍姜維俱還成都。維議復出軍,唯翼廷爭,以為國小民勞,不宜黷武。維不聽,將翼等行,進翼位鎮南大將軍。維至狄道,大破魏雍州刺史王經,經眾死於洮水者以萬計。翼曰:「可止矣,不宜復進,進或毀此大功。」維大怒。曰:「為蛇畫足。」維竟圍經於狄道,城不能克。自翼建異論,維心與翼不善,然常牽率同行,翼亦不得已而往。景耀二年,遷左車騎將軍,領冀州刺史。六年,與維咸在劍閣,共詣降鍾會于涪。明年正月,隨會至成都,為亂兵所殺。】

同 姜維伝
【後十八年,復與車騎將軍夏侯霸等俱出狄道,大破魏雍州刺史王經於洮西,經眾死者數萬人。經退保狄道城,維圍之。魏征西將軍陳泰進兵解圍,維卻住鍾題。】

『魏書』高貴郷公紀 正元二年(255)
【八月辛亥,蜀大將軍姜維寇狄道,雍州刺史王經與戰洮西,經大敗,還保狄道城。辛未,以長水校尉鄧艾行安西將軍,與征西將軍陳泰并力拒維。戊辰,復遣太尉司馬孚為後繼。九月庚子,講尚書業終,賜執經親授者司空鄭沖、侍中鄭小同等各有差。甲辰,姜維退還。冬十月,詔曰:「朕以寡德,不能式遏寇虐,乃令蜀賊陸梁邊陲。洮西之戰,至取負敗,將士死亡,計以千數,或沒命戰場,寃魂不反,或牽掣虜手,流離異域,吾深痛愍,為之悼心。其令所在郡典農及安撫夷二護軍各部大吏慰卹其門戶,無差賦役一年;其力戰死事者,皆如舊科,勿有所漏。」
十一月甲午,以隴右四郡及金城,連年受敵,或亡叛投賊,其親戚留在本土者不安,皆特赦之。癸丑,詔曰:「往者洮西之戰,將吏士民或臨陳戰亡,或沈溺洮水,骸骨不收,棄於原野,吾常痛之。其告征西、安西將軍,各令部人於戰處及水次鉤求屍喪,收斂藏埋,以慰存亡。」】
-----------------------------------------------

同じ「洮西之戰」での戦死者の数が三様に違っているように読み取れそうだ。細かくみると、

a.張翼伝:經眾死於洮水者以萬計
b.姜維伝:經眾死者數萬
c.高貴郷公紀:將士死亡,計以千數

前後の文が違うので一概に数値に差があるとは断定できないのだろうが、それにしても差がありすぎるように受け止められる。aとbは「眾」であり、これには多くの(〝多くの〟という意味も)意味があるが、明帝紀に【司馬宣王帥討遼東】とあるように、ここは戦闘場面であるから軍勢の意味にとっていいのだろう。cの「將士」と「」とが同義かどうかは俄には判断しづらいが、「」を軍勢の意味に取るのであれば、ほぼ同義と言えようか。

萬計」は〝万の位〟という意味だろうから漠然としており、訳注では「5桁にのぼる」のような平たい訳も見かける。なので、「數萬」との差異をあげつらうのもいかがなものかと思うが、『呉志』陸遜伝には【凡數萬計】という表現もある。筑摩訳では「あわせると数万人」となっているので、ある程度のニュアンスの違いはあるのかも知れない。

世に〝三国志通〟と言われる人は少なくなかろうから、それらの人々はもっと多くの事例をご存知なのだろう。ご高見を拝聴したいものである。

『呉志』陸遜伝 是歲建安二十四年十一月也。
【遜遣將軍李異、謝旌等將三千人,攻蜀將詹晏、陳鳳。異將水軍,旌將步兵,斷絕險要,即破晏等,生降得鳳。又攻房陵太守鄧輔、南鄉太守郭睦,大破之。秭歸大姓文布、鄧凱等合夷兵數千人,首尾西方。遜復部旌討破布、凱。布、凱脫走,蜀以為將。遜令人誘之,布帥眾還降。前後斬獲招納,凡數萬計。權以遜為右護軍、鎮西將軍,進封婁侯。】

筑摩『三国志Ⅲ』264頁
「この一連の作戦の中で斬ったり捕虜にしたり、また帰順させたりした者の数は、あわせると数万人にもなった。」

※原文は「漢籍電子文献」による。
2020-04-30 (Thu)

魏の行政単位

魏の行政単位

筑摩『三国志Ⅰ』陳留王紀 注10 p147-----------------------------------------------魏の行政単位は州の下に郡と国(皇族の王国)があり、その下に県と公・侯の国がある。道は県内に異民族を含む場合の呼称。-----------------------------------------------...

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筑摩『三国志Ⅰ』陳留王紀 注10 p147
-----------------------------------------------
魏の行政単位は州の下に郡と国(皇族の王国)があり、その下に県と公・侯の国がある。道は県内に異民族を含む場合の呼称。
-----------------------------------------------

2020-04-29 (Wed)

『魏志』文帝紀にみる〝水行陸行〟

『魏志』文帝紀にみる〝水行陸行〟

『魏志』文帝紀黄初六年【秋七月,立皇子鑒為東武陽王 。八月,帝遂以舟師自譙循渦入淮,從陸道幸徐。】〈拙訳〉秋七月,皇子の(曹)鑒(そうかん)を立てて東武陽王と為す。八月,帝は遂に舟師(=水軍)を以て譙(しょう)自(よ)り渦(水)に循(したが)って淮(水)に入り,陸道從(よ)り徐に幸(みゆき)す。何の説明も不要。水行から陸行へ転じた場合の明記してある例。『魏志』倭人伝の行程記事等の【從郡至倭,循海岸水行】【自郡至女王國萬...

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『魏志』文帝紀黄初六年
【秋七月,立皇子鑒為東武陽王 。八月,帝遂以舟師自譙循渦入淮,從陸道幸徐。】

拙訳
秋七月,皇子の(曹)鑒(そうかん)を立てて東武陽王と為す。八月,帝は遂に舟師(=水軍)を以て譙(しょう)自(よ)り渦(水)に循(したが)って淮(水)に入り,陸道從(よ)り徐に幸(みゆき)す。

何の説明も不要。水行から陸行へ転じた場合の明記してある例。

『魏志』倭人伝の行程記事等の【從郡至倭,循海岸水行】【自郡至女王國萬二千餘里】に見える「從」「」「」が3つながら揃っている点も注目かと。