「魏志倭人伝」への旅 ブログ版

邪馬台国研究の基本文献「魏志倭人伝」とその関連史書を探求する

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2020-02-15 (Sat)

李賢は『魏志』を見ている!その40

李賢は『魏志』を見ている!その40

合間合間に【案今名邪摩惟音之訛也】について、ネット検索をやっているが、やはり「今の名は、邪摩惟という音の訛也」と読んでいる人が少なくない。それと、この「訛」だが、「馬」と「摩」、「臺」と「堆」は、どちらも同じ音だ!と思っている人も少なくないかのようである。この件についての明白な見解を、私は今年の元旦にこのブログに案内しておいたが、その一部分を抜粋して掲出しておこうと思う。永井俊哉ドットコム 日本語...

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合間合間に【案今名邪摩惟音之訛也】について、ネット検索をやっているが、やはり「今の名は、邪摩惟という音の訛也」と読んでいる人が少なくない。それと、この「訛」だが、「馬」と「摩」、「臺」と「堆」は、どちらも同じ音だ!と思っている人も少なくないかのようである。

この件についての明白な見解を、私は今年の元旦にこのブログに案内しておいたが、その一部分を抜粋して掲出しておこうと思う。

永井俊哉ドットコム 日本語版「ヤマトは本来どこにあったのか」
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邪馬壹國派の塚田敬章は、『後漢書』倭伝に「案今名邪摩惟音之訛也」という注があることを指摘して、これに反論している。

    隋書にしたがえば、「魏志には邪馬臺国と書いてあった」ことになります。言葉通り受け取る人もいますが、そう簡単にはいかない。後漢書(百衲本)の、「大倭王は邪馬臺国に居す。」という記述に、「今名を案ずるに、邪摩惟音の訛なり。」という唐の李賢注が続くからです。訛は言葉が誤って変化したことを表す文字です。より古い邪摩惟(ヤバユイ)音の伝承があり、それが変化して今名(唐代)のヤバタイ(邪馬臺、邪靡堆)になったのだとされ、そして、後漢書に百数十年先立つ魏志が邪馬壹国と表記している事実があるわけです。[5]

塚田は「賢注の入れられた頃の「臺」「堆」は同音です」と言い、『三国志』に書かれている「邪馬壹=邪摩惟」が本来の音で、それが今の「邪馬臺=邪靡堆」に訛ったというように解釈する。だから後世の歴史書が「邪馬臺」という訛りの音写を採用しているからと言って、『三国志』が編集されていた頃は「邪馬壹」であったことと矛盾しないというのである。

しかし、塚田の主張は正しくない。まず「臺」と「堆」は、当時同音ではなかった。元朝時代の近古音(中原音韻音系)ではともに[t’ai]であるが、『隋書』や『北史』が編集され、李賢が注を書いた七世紀は中古音の時代であり、「臺」は[dəi]と発音され、「堆」は[tuəi]と発音され、明確に区別されていた。また「邪摩惟」が「邪馬壹」の伝承というのも正しくない。「壹」の中古音は[.iět]で、「惟」の中古音は[yiui]で、両者の間に伝承の関係があるとは言えない。李賢が『三国志』の「邪馬壹」を意識しているのなら、「邪摩惟」とは書かずに、「邪馬壹」と書くはずだ。
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https://www.nagaitoshiya.com/ja/2010/yamadai-yamatai-yamato/#comment-5331

永井俊哉氏が、「惟」や「壹」を成立時のオリジナルだと捉えている点については、誤写誤刻の実態を知悉していない故のことと考えられるが、塚田氏の「同音です」に反論し、「李賢が『三国志』の「邪馬壹」を意識しているのなら、「邪摩惟」とは書かずに、「邪馬壹」と書くはずだ」というのは、至極尤もなことで、「惟」に引きずられている人々は、このような単純な想定にも考えが及ばないかのごとくである。


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No Subject * by 形名
「臺」=[dəi]・・・・呉音(揚子江付近から南部)
「臺」=[tuəi]・・・・漢音(長安西都付近の漢中)
今まで、このように地域で理解していたのですが、音韻
学では時代的な分類(上古音~中古音~近古音)も意識
しなければならないのですね。複雑そうで付いて行け
そうにない。(笑)

>音韻学 * by hyena_no_papa
形名さん、こんばんは(^^)

>複雑そうで付いて行けそうにない。(笑)

何をおっしゃいますやら~ 少し大きな図書館なら、大きな辞典なんかも揃っているでしょうから、調べればなにか分かるんじゃないでしょうか?

とにかくこの件は、李賢の生きた時代を忘れなければ、簡単に解ける問題です。

先程、確認したのですが、南宋紹興年間に編纂された『通志』という本があります。『魏志』から引文していますが、「倭国之所都」として「邪馬臺」とあり、そこには「邪馬臺亦曰邪靡堆音之訛也」と付注されています。『隋書』の「邪靡堆」を用いていますが、「邪摩惟」も「邪馬壹」も出てきません。現行刊本に見える「惟」は単なる誤写誤刻とみていいでしょう。

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2020-02-13 (Thu)

『隋書』経籍志二 史 起居注

『隋書』経籍志二 史 起居注

『日本書紀』「神功紀」に「晋起居注」が引かれていることは周知のことだが、この「起居注」について、「漢籍電子文献」で調べてみると、『隋書』「経籍志」史に起居注が列挙してあったので、早速私のサイトに1ページを加えることにした。「『隋書』経籍志二 史 起居注」ページ下部に各起居注を一覧表にしておいたが、『日本国見在書目録』に見える「晋起居注 丗巻」というのは、この『隋書』経籍志中のどれにも巻数から言って...

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『日本書紀』「神功紀」に「晋起居注」が引かれていることは周知のことだが、この「起居注」について、「漢籍電子文献」で調べてみると、『隋書』「経籍志」史に起居注が列挙してあったので、早速私のサイトに1ページを加えることにした。


ページ下部に各起居注を一覧表にしておいたが、『日本国見在書目録』に見える「晋起居注 丗巻」というのは、この『隋書』経籍志中のどれにも巻数から言って当てはまらない。【晉 起居注三百一十七卷宋北徐州主簿劉道會撰。梁有三百二十二卷。】とあるのがそうなんだろうか。巻数が違うが、十巻程度を一巻にまとめたものがあったのかも知れない。


2020-02-13 (Thu)

テキストエディタの改行コードを、htmlの改行タグに変換する

テキストエディタの改行コードを、htmlの改行タグに変換する

htmlのページを作る際に、テキストエディタを使うのが一般的かと思うが、私が常用しているテキストエディタで、どうやったらこの変換が実行できるのか?なかなか探り出せなかったのだが、いろいろ他のサイトを漁っているうちに、何となく出来そうな気がしたのでやってみた。[置換]を使うのだが、「置換する文字列」に「\n」、「置換後の文字列」に「<br />\n」とする。んで、その次がポイントで、「正規表現を使用する」のチ...

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htmlのページを作る際に、テキストエディタを使うのが一般的かと思うが、私が常用しているテキストエディタで、どうやったらこの変換が実行できるのか?なかなか探り出せなかったのだが、いろいろ他のサイトを漁っているうちに、何となく出来そうな気がしたのでやってみた。

[置換]を使うのだが、「置換する文字列」に「\n」、「置換後の文字列」に「<br />\n」とする。んで、その次がポイントで、「正規表現を使用する」のチェック☑を入れる!これでバッチリ!「すべて置換」を実行すると、コンプリート!


一旦はWORDを使って置換を試み、一応うまく行ったのだが、このテキストエディタでも〝出来るはず!〟と思ってトライ。結果オーライ、、、でほっと一息!
2020-02-11 (Tue)

ショウペンハウエルは偉い!

ショウペンハウエルは偉い!

--------------------------------------------- 往々にして、わたしたちは、みずから考え、また、これを組み合わせることによって、さまざまに苦労を重ね、長い年月を費やして、ようやく作り上げてある真理やある見解が、ふと手にしたある書物のなかに、そっくりできあがっているのを見つけて、がっかりすることがあるとしても、やはり、みずから考えて獲得した真理なり見解は、ただ読んで知ったものにくらべると、百倍以上...

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 往々にして、わたしたちは、みずから考え、また、これを組み合わせることによって、さまざまに苦労を重ね、長い年月を費やして、ようやく作り上げてある真理やある見解が、ふと手にしたある書物のなかに、そっくりできあがっているのを見つけて、がっかりすることがあるとしても、やはり、みずから考えて獲得した真理なり見解は、ただ読んで知ったものにくらべると、百倍以上も価値があります。なぜなら、このようにして初めて、それらのものは、わたしたちの思想の全体系のうちに、たいせつな部分として、また活動的な四肢として入りきたり、これと完全に緊密に結合し、それらの根拠と結論もすっかり理解されて、わたしたちの全思考法の色彩と色調と極印とを有するものとなりますし、それらのものの必要が感ぜられたときに、ちょうどおりよくやってきたので、したがって、堅固な位置を占め二度と消え去ることはないからです。このような意味で、つぎに掲げるゲーテの詩句は、完全に適用されるし、さらに説明されもするでしょう。 「おまえが おまえの先祖から 受け継いだものを おまえのものとするためには さらに それを獲得せにゃならん」(『ファウスト』第一部)
(『みずから考えること』(角川文庫版27-28頁))
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file:///H:/My%20Documents/My%20Webs/%E5%80%AD%E4%BA%BA%E4%BC%9D%E3%81%B8%E3%81%AE%E6%97%85_20190129%20downloaded/the_world_wise_words.html

ここ二三日、『隋書』経籍志を新たなページとして加えるべく、釋読に励んできたのだが、七八割方読み下したところで、「隋書經籍志序譯注」というサイトに遭遇した。「京都大学学術情報リポジトリ」に収録されている論文で、興膳宏氏と 川合康三氏の共著らしい。この論文は今の所(一)から(四)までアクセス可能であることを確認している。

まさに、ここには「そっくりできあがっている」。ほぼ現代語訳でわかりやすい。それに注釈がスゴイ。先に、このサイトに出会っていたら、わざわざ下手の釋読など試みなかったろう。根は怠け者であることは、自分自身が一番知っている。

しかし、せっかく七八割方釋読したものを反故にするのももったいないような気がして、自分のサイトに一ページとして加えることにした。

このページの最下部に、件の「隋書經籍志序譯注」(一)から(四)のリンクを貼ってあるので、是非とも参照すべし!

追記)(五)もアクセス可能だったので追加した。
2020-02-10 (Mon)

『中国史書入門 現代語訳 隋書』

『中国史書入門 現代語訳 隋書』

今夜もいろいろネット検索していたら、タイトルのような本がヒットした。中林史朗・山口謠司 監修/池田雅典・大兼健寛・洲脇武志・田中良明 訳https://bensei.jp/index.php?main_page=product_book_info&products_id=100736前四史は多分、全部現代語訳があるんだろうが、『隋書』まで刊行されているとは知らなんだ(@_@;)「書籍の詳細」として、以下のようにある。---------------------------------------------二十四史...

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今夜もいろいろネット検索していたら、タイトルのような本がヒットした。
中林史朗・山口謠司 監修/池田雅典・大兼健寛・洲脇武志・田中良明 訳

前四史は多分、全部現代語訳があるんだろうが、『隋書』まで刊行されているとは知らなんだ(@_@;)

「書籍の詳細」として、以下のようにある。
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二十四史と呼ばれる中国歴代王朝史(正史)。
既に「史記」や「三国志」などは全文が現代語訳されたものが出版されているが、日本と関係が深まりつつあった時代の「隋書」の現代語訳を行った。従来は日本に関連する事項や専門的記述のみが現代語訳されることの多かった「隋書」から、その本質部分である本紀(皇帝の伝記)全文と諸列伝(人臣の伝記)を訳出。

【本書の特色】
◎原文と現代語訳が対照できる形。
◎皇帝の本紀全篇を中心に掲出した列伝の全文を現代語訳。
◎『隋書』や「隋」という時代を理解するためのコラムを7本、地図や官品表などの資料を収録。
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定価4,620円(税込)

安いよなぁ、、、お金があれば即・お買い上げっ!

「掲出した列伝」と断ってあるのは、100%全部というわけではない、、、という意味なんだろうか。

しかし、、、現代語訳に慣れてしまうと、どんな漢文が出てきても、どこかに現代語訳が出てないか???なんて、すぐに検索に走り回ることになり、自分で四苦八苦して訳出する能力が育たないのかも知れない。

いまではネットの力を借りて、語句の検索がかなり効率的に出来るので、辞書も引き引き、巻末の「漢文の読み方」なんかも参考にしながら、一文一句ずつ読み解いていくのもささやかながら修行なんではなかろうか?なんて考えてみる。

そんな中で、筑摩『三国志』中に、〝これ、ちょっとおかしいべ?〟ちゅう箇所を見出した時は、ささやかながら嬉しさがこみ上げてきて、鼻が0.5ミリ程度高くなったような錯覚も感じる。





2020-02-08 (Sat)

アナライザー設置が遅れた、、、(^^;)

アナライザー設置が遅れた、、、(^^;)

FC2 AnalyzerとGoogle Analyticsを設置するのが遅れてしまった。FC2アクセス解析を見たら、数値が出ていないので、気がついたというわけ(^^;)昨夜から半日分以上がカウント漏れとなってしまった、、、htmlとcssの編集が何とかうまくいったので安堵してしまい、アナライザーの要引っ越しを忘れてた!また一つ、教訓を得た。...

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FC2 AnalyzerとGoogle Analyticsを設置するのが遅れてしまった。

FC2アクセス解析を見たら、数値が出ていないので、気がついたというわけ(^^;)

昨夜から半日分以上がカウント漏れとなってしまった、、、

htmlとcssの編集が何とかうまくいったので安堵してしまい、アナライザーの要引っ越しを忘れてた!

また一つ、教訓を得た。
2020-02-08 (Sat)

武英殿版『後漢書』考證跋語

武英殿版『後漢書』考證跋語

武英殿版『後漢書』考證跋語を釋読してみた。身の程知らずというのか、どうみても惨憺たる訳出の一語。こういう所業を〝不為悚不為慚〟というのかも、、、(-_-;)---------------------------------------------原任詹事〔臣浩〕謹言按范氏後漢書隋志云九十七卷唐志云九十二卷論賛五卷今論賛附於紀傳共九十卷蓋自唐章懐作注付秘書省傳之至今其篇第如此唐志又云賢注後漢書一百卷以紀傳中分上下卷者凡十也劉昭注補志三十卷陳振孫云本...

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武英殿版『後漢書』考證跋語を釋読してみた。身の程知らずというのか、どうみても惨憺たる訳出の一語。こういう所業を〝不為悚不為慚〟というのかも、、、(-_-;)

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原任詹事〔臣浩〕謹言按范氏後漢書隋志云九十七卷唐志云九十二卷論賛五卷今論賛附於紀傳共九十卷蓋自唐章懐作注付秘書省傳之至今其篇第如此唐志又云賢注後漢書一百卷以紀傳中分上下卷者凡十也劉昭注補志三十卷陳振孫云本别為一書至乾興初孫奭建議校勘補亡借闕館閣書目乃直以為百二十卷今考經籍志云後漢書一百二十五卷范氏本劉昭注則志之合於書亦不自奭始矣晁以道謂范書創為后紀及采風俗通枹朴子詭譎事失史之體按吕后有紀見於前書不可謂創何焯云東京諸后臨朝者六范書自合史家之變未可議也王喬左慈附見於方術原未予立傳又何譏焉陳氏又云劉昭所注乃司馬彪續漢書之八志今考章懐注所引續漢書文多與志同其言足信然先范氏而有作者若劉珍之東觀記謝承薛瑩華嶠謝沈袁山松諸家之書張瑩之漢南記今無一存者而彪書之志以附於漢書而傳非其幸歟范氏既未嘗為序卷目皆後人所定一志而分為數帙一傳而並列數人皆非史氏之舊馬班可作當不謂然然作者便於編輯讀者便於檢稽不啻為晉宋以後史書導之先路矣兹奉勅校勘監本漶漫剥落有他本可據者釐而正之疑不可考者仍之刋誤諸家在景祐以前者間為補綴自呉仁傑刋誤補遺而下有前人所未及發者亦分别采輯以備參考刋刻既竣臣浩/復與同事諸臣詳審校勘録為後漢書考證若干條汲深而後知綆之短掃迅而後知葉之多為悚為慚㒺知所措〔臣〕謹識

原任詹事臣陳浩、庶子臣朱良裘侍讀臣齊召南洗馬臣陸宗楷編修臣孫人龍原任編修臣杭世駿檢討臣萬松齡恩貢生臣會尚渭等奉
敕恭校刊
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〔〕内は半字
https://ctext.org/library.pl?if=gb&file=79583&page=150

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原任詹事の臣浩が謹んで言(=言上)す。范氏(=范曄)の『後漢書』を按ずるに、『隋志』(=隋書経籍志)は九十七卷と云ひ、『唐志』(=旧唐書経籍志、新唐書芸文志)は九十二卷、『論賛』五卷と云ふ。今、『論賛』を紀傳に附すに共に九十卷。蓋(けだ)し唐の章懐の注を作(な)し、秘書省に付して之を傳へし自(よ)り今に至るは、其の篇第此(かく)の如し。『唐志』は又云ふ(李)賢注『後漢書』一百卷は紀傳中を以て上下卷に分(わか)つ者(は)凡(およ)そ十也。劉昭注『補志』三十卷は陳振孫云ふに本(もと)は别(わか)ちて一書を為すも、乾興初に至りて孫奭は校勘を建議し、亡を補(おぎな)ひ闕(欠)を館閣書目に借りて乃(すな)はち直ちに以て百二十卷を為す。今考ふるに、「經籍志」の云ふ『後漢書』一百二十五卷は范氏本、劉昭注則(すなは)ち志の書に合はせしにして、亦(また)(孫)奭の始むるに自(よ)らず矣(や)。晁以道(=晁說之)は謂ふに范書の創(はじめ)て「后紀」を為し、及び「風俗通」「枹朴子」を采(=採)るは詭譎(きけつ)にして事は史の體を失ふと。按ずるに吕后の紀有るは前書に見え、創(はじめて)と謂ふ可からず。何焯は云ふ、東京の諸后、朝に臨(のぞ)む者六。范書の自(おのづか)ら史家の變を合はすは、未(いま)だ議(ぎ)す可からざる也。王喬、左慈は附して「方術」に見へ、原(もと)は未(いま)だ予(あらかじ)め傳を立てざるを、又何(なん)ぞ譏(そし)る焉(や)。陳氏(陳振孫)又云ふ。劉昭の注する所は乃(すなは)ち司馬彪『續漢書』の八志にして、今考ふるに章懐(太子李賢)注が『續漢書』を引く所の文は、多く「志」と同じく、其の言は信ずるに足る。然(しか)るに范氏に先んじ而(て)作(作)有る者(は)、劉珍の『東觀(漢)記』、謝承、薛瑩、華嶠、謝沈、袁山松なる諸家の書、張瑩の『漢南記』の若(ごと)きは、今、一つとして存する者(は)無し。而して(司馬)彪書(=続漢書)の「志」を『漢書』に附すを以て、而して傳ふるは、其の幸(さひわひ)に非(あら)ざる歟(や)。范氏は既に未だ嘗(かつ)て序に卷目を為さず、皆後人の定むる所にして、一志は而して分かちて數帙と為し、一傳は而して數人を並列し、皆史氏之舊(=旧弊)に非(あら)ず。馬(=司馬遷)班(=班固)の作る可きは當(まさ)に然然(しかじか)と謂(い)はざるべくして、作者の編輯するに便、讀者の檢稽(考察)するに便、啻(ただ)に晉宋以後の史書、之を先路へ導く為のみなら(不)ず矣(や)。兹(ここ)に勅を奉じて監本の漶漫剥落を校勘し、他本に據(よ)る可き者有らば之を釐(をさ)め而(しか)して正(ただ)す。疑ふらくも考へ可(べか)らざる者(は)之に仍(したが)ひ諸家を刋誤し、景祐以前者(は)間(まま)補綴を為すは在り。呉仁傑『(兩漢)刋誤補遺』自(よ)り而下(=以下)前人の未(いま)だ發するに及ばざる所有る者(は)亦(また)分别采輯(=採集)し以て參考に備ふ。刋刻は既に竣(を=終)はる。臣(陳)浩、復(また)同事(=同僚)諸臣との詳審(つまびらか)なる校勘録を『後漢書考證』と為す。若干の條は汲深(深く汲む)して而後(しかるのち)綆(つるべ)の短きを知り、掃迅(速く掃く)して而後(しかるのち)葉の多きを知る。悚(恐)れを為し慚(恥)と為し、措(お)く所を知る㒺(罔=なか)れ。臣謹しんで識(しる)す。

原任詹事臣陳浩
庶子臣朱良裘
侍讀臣齊召南
洗馬臣陸宗楷
編修臣孫人龍
原任編修臣杭世駿
檢討臣萬松齡
恩貢生臣會尚渭等奉
敕恭校刊
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〈注補〉
■原任:是指已離職之官。by百度百科
■詹事:せんじ。中国の官名。皇后・太子家の家事をつかさどるもの。『制度通』(1724)三「秦漢已後、師傅の外に詹事を加へおく」 〔漢書‐百官公卿表上〕by精選版 日本国語大辞典
■陳振孫:1179-1262。初名瑗、字伯玉、號直齋、浙江安吉州(今浙江安吉縣)人、一作永嘉(今浙江溫州)人。南宋時期目錄學家。by維基百科
■孫奭:962-1033。字宗古、宋代經學家。北宋博州博平(今山東茌平)人、後遷居須城(今山東東平)。by維基百科
■館閣:宋朝有史館、昭文館、集賢院、稱為「三館」、又有祕閣、龍圖及天章等閣、統稱為 「館閣」。明、清兩代稱翰林院為「館閣」。by教育百科
■風俗通:『風俗通義』は、後漢末の応劭の著作。『風俗通』とも呼ぶ。さまざまな制度、習俗、伝説、民間信仰などについて述べた書物。
■抱朴子:晋の葛洪の著書。内篇20篇、外篇50篇が伝わる。 とくに内篇は神仙術に関する諸説を集大成したもので、後世の道教に強い影響を及ぼした。
■詭譎:珍しくて怪しげなこと。 また、人をあざむくようないつわり。
■何焯(かしゃく):中国、清代前期の学者。字は屺瞻(きせん)、号は義門。江蘇省長州の人。宋の王応麟、清初の馮班(ふうはん)の実事求是の方法を受け継いだ文献学によって、翰林院編修として経書、正史の校刊に従事し、桐城派の方苞(ほうほう)と対抗しながら、のちの考証学全盛への一端をになった。
■東京:洛陽
■吳仁傑:『宋史』芸文志【吳仁傑兩漢刊誤補遺十卷】
■左慈:中国後漢時代末期の方士。字は元放。揚州廬江郡の人。 正史では『後漢書』82巻方術列伝下に伝記がある。
■王喬:『後漢書』方術列傳上にあり
■晁說之:1059-1129。字以道、號景迂、宋代製墨名家、經學家。
■陳浩:『明史』在事諸臣職名 【日講官起居注詹事府詹事兼翰林院侍讀學士加一級臣陳浩】
■朱良裘:同【署理日講官起居注翰林院編修兼明史館提調臣朱良裘】
■齊召南:『清史稿』齊召南伝
■陸宗楷:『清史稿』高宗紀【內閣學士陸宗楷等原品休致】
■孫人龍:?-?。字端人、約亭、頤齋,浙江省湖州府烏程縣(今浙江省湖州市)人,清朝政治人物、進士出身。生平:雍正八年(1730)登庚戌科進士,改庶吉士。后擔任翰林院編修。雍正十三年,擔任雲南學政。后升任右中允。乾隆九年、擔任廣東肇高學政。乾隆十九年、擔任會試同考官。by維基百科
■杭世駿:康煕37(1698)-乾隆38(1773)。中国、清の文学者。浙江省仁和県の人。字,大宗。号、菫浦。乾隆年間に博学鴻詞科に合格。晩年には揚州書院などで教育にあたった。武英殿で『十三経』『二十四史』の校勘をし、『三礼義疏』を纂修した。著書『三国志補注』『続方言』『道古堂詩文集』などがある。byブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
■萬松齡:字星鐘、江蘇宜興人、清朝政治人物。雍正七年經魁、考取內閣中書。乾隆二年(1737)、召試丙辰博學鴻詞科第一、授翰林院檢討、武英殿行走、後因老辭職歸鄉、著有《思儉樓集》by維基百科



2020-02-07 (Fri)

形名さんのアドバイスにより、テンプレートを変更・調整

形名さんのアドバイスにより、テンプレートを変更・調整

形名さんから、かなり詳細なアドバイスを頂いたので、久しぶりにhtmlとcssに取り組んでみた。・ブログタイトルのフォントサイズを拡大、ウエイトをボールドに・ブログタイトルのシャドウをもっと明らかに・ブログ説明のフォントサイズを1.5倍に・各投稿のタイトルを1.5倍にトップの背景画像もデフォルトから変更してみた。手元にある汲古閣本『三國志』を並べて見た。とりあえずの急ぎ働きなので、このくらいか?しかし、cssもかな...

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形名さんから、かなり詳細なアドバイスを頂いたので、久しぶりにhtmlとcssに取り組んでみた。

・ブログタイトルのフォントサイズを拡大、ウエイトをボールドに
・ブログタイトルのシャドウをもっと明らかに
・ブログ説明のフォントサイズを1.5倍に
・各投稿のタイトルを1.5倍に

トップの背景画像もデフォルトから変更してみた。手元にある汲古閣本『三國志』を並べて見た。

とりあえずの急ぎ働きなので、このくらいか?

しかし、cssもかなり弄ったので、不必要な箇所まで書き換えてしまっているかも知れない。不具合がでなければいいが、、、
No Subject * by 形名
ブログタイトルのシャドウがかっこいいですね!
画像も渋い。大学研究室HPブログ版という雰囲気です。

形名さん、ご覧いただき、ありがとうございますm(_ _)m * by hyena_no_papa
>ブログタイトルのシャドウがかっこいいですね!

何年か前、html5とcss3の本を買って、少しかじったんですよね。お奨めのテンプレートを眺めていたら、text-shadow文が見えたので、数値を少しいじってみました。

>画像も渋い。大学研究室HPブログ版という雰囲気です。

ありがとうございますm(_ _)m 画像を編集し始めるときりがないので、適当なところでまとめました。

そうそう、形名さんの「東国の古代史」も私のブログのリンクに加えさせていただきました。時々、刺激を受けるために覗かせていただきたいと思っております。

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2020-02-05 (Wed)

京都大学人文科学研究所の准教授、古勝隆一氏の「学退筆談」に遭遇!

京都大学人文科学研究所の准教授、古勝隆一氏の「学退筆談」に遭遇!

https://xuetui.wordpress.com/about/超絶サイトである。私なんぞ、お釈迦様の掌の中を飛んでいる孫悟空の掌の中を飛んでいる小虫に過ぎない(-_-)それでもまだ自惚れかも知れないが、、、こんな日は早く寝るに限る、、、zzzzzzzz...

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超絶サイトである。

私なんぞ、お釈迦様の掌の中を飛んでいる孫悟空の掌の中を飛んでいる小虫に過ぎない(-_-)

それでもまだ自惚れかも知れないが、、、

こんな日は早く寝るに限る、、、zzzzzzzz
2020-02-04 (Tue)

李賢は『魏志』を見ている!その39

李賢は『魏志』を見ている!その39

吉川忠夫訓注『後漢書』「解題 七 刊本の時代を迎えて」の403ページから先に引用したが、405ページには、その続きの部分の訳出が出ている。---------------------------------------------先に引いた『石林燕語』はさらにつぎのように書きつがれている。「余襄公靖(よじょうこうせい)の秘書丞と為るや、嘗つて前漢書の本の謬(あやま)り甚だしきを言う。詔して王原叔(おうげんしゅく)と同(とも)に秘閣の古本を取りて参校せしめ、...

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吉川忠夫訓注『後漢書』「解題 七 刊本の時代を迎えて」の403ページから先に引用したが、405ページには、その続きの部分の訳出が出ている。
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先に引いた『石林燕語』はさらにつぎのように書きつがれている。「余襄公靖(よじょうこうせい)の秘書丞と為るや、嘗つて前漢書の本の謬(あやま)り甚だしきを言う。詔して王原叔(おうげんしゅく)と同(とも)に秘閣の古本を取りて参校せしめ、遂に刊誤三十巻を為(つく)る。其の後、劉原父(りゅうげんふ)兄弟、両漢に皆な刊誤有り」。劉原父は劉敞(りゅうしょう)。弟の劉攽(りゅうひん)、字は貢父(こうふ)とともにその仕事を行ったのであって、とりわけ『東漢(書)刊誤』にはもっばら劉攽一人の名が冠せられる。『東漢書』とはもとより『後漢書』のこと。
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「秘閣の古本」とは、恐らく写本のことだろう。

ここで、『石林燕語』の当該箇所全文を以下に掲げる。葉夢得(しょうぼうとく、ようぼうとく)『石林燕語』巻八
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唐以前,凡書籍皆寫本,未有模印之法,人以藏書為貴。〔人〕不多有,而藏者精於讎對,故往往皆有善本。學者以傳錄之艱,故其誦讀亦精詳。五代時,馮道〔始〕奏請始官鏤《六經》板印行。國朝淳化中,復以《史記前後漢》付有司摹印,自是書籍刊鏤者益多,士大夫不復以藏書為意。學者易於得書,其誦讀亦因滅裂,然板本初不是正,不無訛誤。世既一以板本為正,而藏本日亡,其訛謬者遂不可正,甚可惜也。餘襄公靖為秘書丞,嘗言《前漢書》本謬甚,詔與王原叔同取秘閣古本參校,遂為《刊誤》三十卷。其後劉原父兄弟,《兩漢》皆有刊誤。餘在許昌得宋景文用監本手校《西漢》一部,末題用十三本校,中間有脫兩行者。惜乎,今亡之矣。
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〔〕内は『宋本群經義疏的編校與刊印』所引『石林燕語』巻八により補。

吉川忠夫氏の2箇所の訳出の残された部分のみ、拙読を書く。
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餘は許昌に在りて宋景文の用ひし監本手校『西漢』の一部を得,末題に十三本の校(=校正)を用ふも,中間に兩行の脫する者有り。惜しむべきか,今や之(これ)亡(うしな)はる。
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『宋史』王洙伝【王洙字原叔】
『宋史』劉敞伝【劉敞字原父】【弟攽】
『宋史』宋庠弟祁伝【祁字子京,與兄庠同時舉進士,禮部奏祁第一,庠第三】【謚曰 景文】

宋代になってから書物の印行が極めて盛んになったことは周知のことだろうが、劉攽や『石林燕語』の語るところを見れば、数は多く流布したが質は低下した、、、という一語に尽きるのではなかろうか。

我々が日常みる「百衲本」の書影などは確かに美しいが、それと訛謬の有無・多寡は恐らく無関係なのではないか。


2020-02-04 (Tue)

李賢は『魏志』を見ている!その38

李賢は『魏志』を見ている!その38

「その37」で「祕書丞余靖上言」を釋読してみたが、動機は【國子監所印兩漢書文字舛譌恐誤後學】が印象的だったから。淳化は北宋太宗の年号で、940-944。乾興は北宋真宗の年号で、1022。景祐は北宋仁宗の年号で、1034-1038。余靖の上言が景祐元年で、その時点で「兩漢書文字舛譌」ということは、先行する刊本である「淳化刊本」「乾興刊本」上でのことを言っていることになる。つまり、100年を出ない時点で「舛譌」が見いだされて...

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「その37」で「祕書丞余靖上言」を釋読してみたが、動機は【國子監所印兩漢書文字舛譌恐誤後學】が印象的だったから。

淳化は北宋太宗の年号で、940-944。
乾興は北宋真宗の年号で、1022。
景祐は北宋仁宗の年号で、1034-1038。

余靖の上言が景祐元年で、その時点で「兩漢書文字舛譌」ということは、先行する刊本である「淳化刊本」「乾興刊本」上でのことを言っていることになる。つまり、100年を出ない時点で「舛譌」が見いだされていることはどういうことなのか。

「淳化刊本」「乾興刊本」の間に「舛譌」が生じているとも受け取れるが、当時は未だ残存していた写本との対校から、そのように判断したということかも知れない。

これには、葉夢得の『石林燕語』の記載が参考になるかも知れない。

吉川忠夫訓注『後漢書』「解題」七 刊本の時代を迎えて 403ページ
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しかしところで、写本の時代から刊本の時代に変ってまた新たな問題が出来した。葉夢得(しょうぼうとく)の右の文章はつぎのようなコンテキストの中に置かれているのである。「唐以前、凡そ書籍は皆な写本にして未だ模印の法有らず、人は蔵書を以て貴しと為す。人は多くは有せざるも、而るに蔵する者は讎対(しゅうたい=校勘)に精なれば、故に往往にして皆善本有り。学者は伝錄の艱(くる)しきを以て、故に其の誦読も亦た精詳なり。……国朝の淳化中、復(ま)た史記、前後漢を以て有司に付して模印せしめ、是れ自(よ)り書籍の刊鏤する者益々多く、士大夫は復(ま)た蔵書を以て意と為さず。学者は書を得ることに易ければ、其の誦読も亦た因って滅裂す。然れども板本は初めより校正せざれば、訛誤(かご)無くんばあらず。世は既に一に板本を以て正しと為し、而して蔵本も日ごとに亡(うしな)われ、其の訛謬(かびゅう)する者遂に正す可からず。甚だ惜しむ可きなり。
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刊鏤:版木を彫る。
滅裂:軽率で粗略なこと。

吉川忠夫京都大学名誉教授が引いた『石林燕語』のこの一節は衝撃的である。「その36」で、『宋史』「邢昺伝」を引いて版本の普及がもたらす幸について書いたが、刊本の普及は『石林燕語』で葉夢得が嘆いているような事態も招いてしまったということになる。

これは現代人である我々にとっても、身につまされる話と言えよう。ネットから簡単に情報を入手できるようになった一方で、丹念に本を読むことが減り、断片化された知識の集積を以て〝知識〟だと錯覚してしまうご時世なのではないか。
2020-02-04 (Tue)

李賢は『魏志』を見ている!その37

李賢は『魏志』を見ている!その37

武英殿版『後漢書』列伝末尾の「祕書丞余靖上言」を読み下してみた。---------------------------------------------景祐元年九月祕書丞余靖上言國子監所印兩漢書文字舛譌恐誤後學臣謹參括衆本旁據他書列而辯之望行刊正詔送翰林學士張觀等詳定聞奏又命國子監直講王洙與靖偕赴崇文院讎對謹按後漢明帝詔班固陳宗尹敏孟冀作世祖本紀及建武時功臣列傳後有劉珍李充雜作建武已後至永初間紀傳又命伏無忌黃景作諸王王子恩澤侯并單于西羌地...

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武英殿版『後漢書』列伝末尾の「祕書丞余靖上言」を読み下してみた。
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景祐元年九月祕書丞余靖上言國子監所印兩漢書文字舛譌恐誤後學臣謹參括衆本旁據他書列而辯之望行刊正詔送翰林學士張觀等詳定聞奏又命國子監直講王洙與靖偕赴崇文院讎對謹按後漢明帝詔班固陳宗尹敏孟冀作世祖本紀及建武時功臣列傳後有劉珍李充雜作建武已後至永初間紀傳又命伏無忌黃景作諸王王子恩澤侯并單于西羌地理志又邊韶崔寔朱穆曹壽作皇后外戚傳百官表及順帝功臣傳成一百一十四篇號曰漢紀嘉平中馬日磾蔡邕楊劇盧植續爲東觀漢紀吳武陵太守謝承作漢書一百三十卷晉散騎常侍薛塋作後漢紀一百卷泰始中祕書丞司馬彪始取衆說首光武至孝獻作續漢書又散騎常侍華嶠刪定東觀記爲漢後書九十七篇祠部郎謝沈作後漢書一百二十二卷祕書監袁山松作一百卷至宋宣城太守范曄益集詣家作十紀十志八十列傳凡百篇十志未成曄被誅至梁世有剡令劉昭者補成之唐章懷太予賢詔集當時學者右庶子張太安洗馬劉訥言洛州司戶參軍革希玄學士許叔牙成玄一史藏諸周寶寧等同註范曄後漢書儀鳳初上之詔付秘書省傳之至今靖洙悉取館閣諸本參校二年九月校畢凡增五百一十二字損一百四十三字改正四百一十一字
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〈拙読〉
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景祐元年(1034)九月 祕書丞の余靖は上言するに、國子監の印する所の『兩漢書』の文字の舛譌(せんか=あやまり)は後學を誤まるを恐る。臣は謹しんで參じ衆本を括(あつ)め、旁(かたは)ら他書の列(=部類)に據(よ)り、而(しか)して之を辯じ、刋正(せんせい=切ると正す)を行はむことを望む。詔して翰林學士の張觀等を送り、詳定して聞奏(=天子に申し上げる)す。又(また)國子監直講の王洙と(余)靖に命じて、偕(とも)に崇文院へ赴(おもむ)き讎對(=対校)す。謹しんで按ずるに後漢の明帝は班固、陳宗、尹敏、孟冀に詔して「世祖本紀」及び「建武時功臣列傳」を作る。後(のち)劉珍、李充の雜作有り。建武已後(=以後)永初間に至りて紀傳は又、伏無忌、黄景に命じ「諸王」「王子」「恩澤侯」并(ならび)に「單于」「西羌」「地理志」を作る。又(また)邊韶、崔寔、朱穆、曹夀は「皇后外戚傳」「百官表」及び「順帝功臣傳」を作りて一百一十四篇と成し、號して『漢紀』と曰く。嘉平中、馬日磾、蔡邕、楊劇、盧植は續けて『東觀漢紀』を為し、呉の武陵太守の謝承は『漢書』一百三十卷を作(な)し、晉の散騎常侍の薛塋は『後漢紀』一百卷を作し、泰始中、祕書丞の司馬彪は始めて衆説を取り、光武(帝)を首(はじめ)とし孝獻(帝)に至るを『續漢書』と作し、又散騎常侍の華嶠は『東觀記』を刪定して『漢後書』九十七篇を為し、祠部郎の謝沈は『後漢書』一百二十二卷を作し、祕書監の袁山松は一百卷を作す。宋に至りて宣城太守の范曄は諸家の作を十紀十志八十列傳、凡(およ)そ百篇に益集するも、十志は未(いま)だ成らずして(范)曄は被誅(ちゅう)せらる。梁の世に至りて剡令の劉昭なる者有りて、之を補成す。唐の章懐太子(李)賢は詔して當時の學者たる右庶の張太安、洗馬の劉訥言、洛州司戸參軍の革希玄、學士の許叔牙、成玄一、史藏諸、周寳寧等を集め、同じく范曄の『後漢書』に註す。儀鳯の初、之を上するに詔して祕書省に付して之を傳へ、今に至る。(余)靖と(王)洙は悉(ことごと)く館閣の諸本を取りて參校し、二年九月校畢(をは)る。凡(すべ)て五百一十二字を増し、一百四十三字を損(へ)らし、四百一十一字を改正す。
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人名や書名などの基礎的知識に乏しいので、難儀する。素養のある人なら別に難しくもない文なんだろうが、、、(・_・;)

修正)「祕書丞の余靖は國子監に上言するに、印する所の」はおかしい。「上言」は「天子、天皇など、貴人に意見を申しあげること」なので、ここは「祕書丞の余靖は上言するに、國子監の印する所の『兩漢書』の文字の舛譌(せんか=あやまり)は後學を誤まるを恐る」とすべきか。よって修正。
2020-02-03 (Mon)

李賢は『魏志』を見ている!その36

李賢は『魏志』を見ている!その36

ちょっと横道にそれるが、宋代の刊刻について、昔読んだ榎一雄博士の『改訂増補版 邪馬台国』の一節を、またまた思い出した。この一節は、私にとって〝教訓的一節〟なので、しばしば脳内を横切っていく。榎一雄『改訂増補版 邪馬台国』22ページ-----------------------------------------------咸平五年(一〇〇二)から三年後の景徳二年(一〇〇五)五月一日、真宗は国子監(大学)に行幸し、その書庫を閲し、祭酒(総長)邢昺に「書版(...

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ちょっと横道にそれるが、宋代の刊刻について、昔読んだ榎一雄博士の『改訂増補版 邪馬台国』の一節を、またまた思い出した。この一節は、私にとって〝教訓的一節〟なので、しばしば脳内を横切っていく。

榎一雄『改訂増補版 邪馬台国』22ページ
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咸平五年(一〇〇二)から三年後の景徳二年(一〇〇五)五月一日、真宗は国子監(大学)に行幸し、その書庫を閲し、祭酒(総長)邢昺に「書版(版木)はどの位あるか」と訊ねた。昺は対えて「国初は四千に足りませんでしたが、今は十余万ございまして、経史正義皆揃っております。私は年少の時から儒学の研鑽を仕事にして参りましたが、当時は学徒で経疏を所有しております者は万人に一人か二人も居りませんでした。これは写本作りが間に合わなかったからでございましょう。今は板木が大いに備わりましたので、士人も庶民も家ごとに皆もっております。こうした時勢に生まれあわせましたことは、儒を学ぶものの幸でございます」と言ったことが、続資治通鑑長編巻六十及び宋史巻四三一邢昺伝に見えている。
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それで、その『宋史』「邢昺伝」の該当部分を引く。
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景德二年〈中略〉是夏,上幸國子監閱庫書,問昺經版幾何,昺曰:「國初不及四千,今十餘萬,經、傳、正義皆具。臣少從師業儒時,經具有疏者百無一二,蓋力不能傳寫。今板本大備,士庶家皆有之,斯乃儒者逢辰之幸也。」上喜曰:「國家雖尚儒術,非四方無事何以及此。」
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榎博士の訳出に続く部分、【上喜曰「國家雖尚儒術,非四方無事何以及此。」】のみ拙訳を掲げる。

拙訳「上(=帝・真宗)は喜びて曰(いは)く、國家は尚(なほ)儒術(=儒者の道)と雖(いへど)も,四方無事に非(あら)ずんば何を以(もっ)てか此(こ)れに及ばむ。」

2020/2/4修正)『宋書』「邢昺伝」ではなく、当然『宋史』である。よって修正。



尹龍九さん * by 白石南花
本文に関係無い話ですが、ハイエナさんはひょっとして尹龍九さんとお知り合いですか。
『三国志』版本と「東夷伝」校監 と言う論文の参照文献にハイエナさんの御本名と思われる名前で引かれていたので・・・

>尹龍九さん * by hyena_no_papa
白石南花さん、こんにちは(^^)

>ハイエナさんはひょっとして尹龍九さんとお知り合いですか

いいえ、そんな名前の方は存じ上げませんが、、、

>『三国志』版本と「東夷伝」校監 と言う論文の参照文献にハイエナさんの御本名と思われる名前で引かれていたので・・・

げっ(@_@;) その論文はネット上で見れるんでしょうか?今から私も探してみますが、、、

尹龍九 * by 白石南花
添付リンクなんかどうですか。
名前を付けてPDFとしてダウンロードすると読めます。
尹龍九さんは仁川広域市立博物館の館長だったひとで、かっては大学で教鞭を取っておられたようです。

>尹龍九さん * by hyena_no_papa
白石南花さん、こんにちは(^^)

>添付リンクなんかどうですか。
>名前を付けてPDFとしてダウンロードすると読めます。

はい、それでお願いします。アドレスはyahoo!メールでどうでしょうか?
hyena_no_papa@yahoo.co.jp
ですが、、、

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2020-02-03 (Mon)

李賢は『魏志』を見ている!その35

李賢は『魏志』を見ている!その35

一昨日の投稿で「梁剡令劉昭」と書いたが、この「梁剡令」について調べもせずに、そのような名の官名なんだろうと、スルーしてしまっていた。今、ちょっと調べてみたら、これは「梁の剡(せん)県の令」という意味。何でも見過ごさずに一つ一つ調べなくてはイケナイという見本。『梁書』劉昭伝---------------------------------------------劉昭字宣卿,平原高唐人,晉太尉寔九世孫也。祖伯龍,居父憂以孝聞,宋武帝敕皇太子諸王並...

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一昨日の投稿で「梁剡令劉昭」と書いたが、この「梁剡令」について調べもせずに、そのような名の官名なんだろうと、スルーしてしまっていた。

今、ちょっと調べてみたら、これは「梁の剡(せん)県の令」という意味。何でも見過ごさずに一つ一つ調べなくてはイケナイという見本。

『梁書』劉昭
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劉昭字宣卿,平原高唐人,晉太尉寔九世孫也。祖伯龍,居父憂以孝聞,宋武帝敕皇太子諸王並往弔慰,官至少府卿。父彪,齊征虜晉安王記室。昭幼清警,七歲通老、莊義。既長,勤學善屬文,外兄江淹早相稱賞。天監初,起家奉朝請,累遷征北行參軍,尚書倉部郎,尋除無錫令。歷為宣惠豫章王、中軍臨川王記室。初,昭伯父肜集眾家晉書注干寶晉紀為四十卷,至昭又集後漢同異以注范曄書,世稱博悉。遷通直郎,出為剡令,卒官。集注後漢一百八十卷,幼童傳十卷,文集十卷。
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『南史』劉昭
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劉昭字宣卿,平原高唐人,晉太尉寔九世孫也。祖伯龍,居父憂以孝聞,宋武帝敕皇太子諸王並往弔慰,官至少府卿。父彪,齊征虜晉安王記室。昭幼清警,通老、莊義。及長,勤學善屬文,外兄江淹早相稱賞。梁天監中,累遷中軍臨川王記室。初,昭伯父肜集眾家晉書注干寶晉紀為四十卷,至昭集後漢同異以注范曄後漢,世稱博悉。卒於剡令。集注後漢一百三十卷,幼童傳一卷,文集十卷。
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ここでの「卒」は〝終える〟でいいんだろう。「出(いで)て剡の令と為し,官を卒(を)ふ」「剡の令に(を)ふ」。





2020-02-01 (Sat)

李賢は『魏志』を見ている!その34

李賢は『魏志』を見ている!その34

今日日中の長い投稿の内容を「武英殿版」で確認してみた。「中國哲學書電子化計劃」にその書影があったので見ると、確かに列伝の最後に続けて、范曄の「自序」と、梁剡令劉昭の「後漢書注補志序」、それに余靖の景祐元年九月付「上奏文」が付されていた。しかし、新日本古典籍総合データベース国文学研究資料館 鵜飼文庫の汲古閣本『後漢書』には、それらが付されていない。「武英殿版」は恐らく「景祐刊本」の流れを引くものだろ...

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今日日中の長い投稿の内容を「武英殿版」で確認してみた。「中國哲學書電子化計劃」にその書影があったので見ると、確かに列伝の最後に続けて、范曄の「自序」と、梁剡令劉昭の「後漢書注補志序」、それに余靖の景祐元年九月付「上奏文」が付されていた。

しかし、新日本古典籍総合データベース国文学研究資料館 鵜飼文庫の汲古閣本『後漢書』には、それらが付されていない。

「武英殿版」は恐らく「景祐刊本」の流れを引くものだろう。「邪摩推」とあるし。一方で「汲古閣本」が、何をルーツにしているのか判然としない。

余燼はくすぶり続ける、、、
2020-02-01 (Sat)

李賢は『魏志』を見ている!その33

李賢は『魏志』を見ている!その33

昨日、「未だ余燼くすぶるの感しきりである。」と書いたが、まさしくその通りだ。『後漢書集解』巻首の「後漢書集解述略」の末尾に掲げてある一文を釋読してみた。---------------------------------------------皇明崇禎十有六年歳在尚章叶洽寎月上已琴川毛氏開雕 索隠曰尚章癸也爾雅作昭陽今從史記厤書〔集解〕黄山曰汲古閣本後漢書無宋乾興元年孫奭奏請並劉昭補志合刊牒文亦無景祐元年余靖奏請刊誤牒文蓋所據宋本原非監本故文字...

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昨日、「未だ余燼くすぶるの感しきりである。」と書いたが、まさしくその通りだ。

『後漢書集解』巻首の「後漢書集解述略」の末尾に掲げてある一文を釋読してみた。

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皇明崇禎十有六年歳在尚章叶洽寎月上已琴川毛氏開雕 索隠曰尚章癸也爾雅作昭陽今從史記厤書〔集解〕黄山曰汲古閣本後漢書無宋乾興元年孫奭奏請並劉昭補志合刊牒文亦無景祐元年余靖奏請刊誤牒文蓋所據宋本原非監本故文字視監本多異而亦往往有勝監本者南宋私家刻本書籍流傳後代如廖氏世綵堂余氏有勤堂等凡六七家皆稱善本毛氏収蔵既富所據必別有至精之本

〈拙読〉
皇明(=明朝)崇禎十有六年(注1)、歳は尚章(注2)叶洽(注3)に在りて、寎月(注4)上已(注5)に琴川(注6)の毛氏(注7)開雕(注8)す。〔索隠(注9)曰く 尚章は癸(みずのと)也 爾雅(注10)は昭陽(注11)に作る 今、史記厤書(注12)に從ふ〔集解〕黄山(注13)曰(いわ)く汲古閣本後漢書は、宋の乾興元年(注14)に孫奭(注15)の奏請(注16)し、並(なら)びに劉昭(注17)補志に合刊せし牒文無く、亦(また)景祐元年(注18)に余靖(注19)の奏請して刊誤(注20)せし牒文も無し。蓋(けだ)し據(よ)る所は宋本の原監本(注21)に非(あら)ずして、故(ゆえ)に文字は監本と多くの異を視(み)る。而して亦(また)往往にして監本に勝(まさ)るところ有るは、南宋私家刻本の書籍の後代に流傳すること廖氏世綵堂、余氏有勤堂等の如く、凡(およ)そ六七家は皆善本と稱す。毛氏の収蔵するは既に富(ゆたか)にして、據(よ)る所は必(かなら)ずや別に至精(いたって精妙)之本有り。
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『後漢書集解』が底本としたのは、確かに「汲古閣本」なのだろうが、北宋監本を底本としている訳でもなさそうだという。写本はもちろんだが、刊本にしても出自来歴は一筋縄ではくくれなさそうだ。

新日本古典籍総合データベース 国文学研究資料館 鵜飼文庫の汲古閣本『後漢書』書影では、倭伝の「使驛」に劉攽の注は無い。また、【邪馬臺】への李賢注は【案今名邪摩推音之訛反】である。
http://kotenseki.nijl.ac.jp/biblio/200019100/viewer/1253

和刻本『後漢書』では、【使驛】の直後に〔
劉攽曰使驛按當作譯説已見上〕とあるが、『後漢書集解』では、【使驛】の直後ではなく【三十許國】の直後に〔集解〕として、〔劉攽曰使驛案當作譯説已見上惠棟驛魏志作譯〕とあり、両者の違いにが何に基づくものかは即断できない。

〈注〉
注1)崇禎十有六年 1643年
注2)尚章:しょうしょう:癸年の異称
注3)叶洽:きょうこう=未年の異称。尚章叶洽で癸未(みずのとひつじ)。1643年は癸未の歳。
注4)寎月:へいげつ=陰暦三月の別称
注5)上已:上巳(じょうし)か=三月三日桃の節句
注6)琴川:今の江蘇省常熟市
注7)毛氏:毛晉(1599年1月31日-1659年9月13日)原名鳳苞,字子久。後改字子晉,號潛在,別號汲古主人。常熟(今屬江蘇省)人。明末著名藏書家、出版家、刻書家、文學家、經學家。by百度百科
注8)開雕:かいちょう=刊刻を開始すること
注9)索隠:史記索隠
注10)爾雅:じが=中国最古の類語辞典・語釈辞典
注11)昭陽:しょうよう=癸(みずのと)年の異名
注12)史記厤書:厤は歴の略字。「汲古閣本」には「歴」と見える。
注13)黄山:『後漢書集解』編者王先謙の弟子。『後漢書集解』巻末の「後漢書集解坿續志集解跋」に【癸亥季冬月朔門人同邑黄山謹跋於杭州旅次】とある。書虫データベースには「《後漢書集解》未刊成而先謙已卒,底稿有散佚,頼弟子黄山及柳従辰校勘補成之。」と紹介。
注14)乾興元年:けんこう。1022年。
注15)孫奭:そんせき。962-1033。字宗古、博州博平(今山東茌平縣博平鎮)。北宋時期大臣、經學家、教育家。by百度百科
注16)奏請:天子に申し上げて決済を請う。
注17)劉昭:『後漢書』志に補注した。
注18)景祐元年:北宋仁宗の年号で元年は1034。
注19)余靖(1000-1064)、本名餘希古,字安道,號武溪,韶州曲江(今廣東省韶關市)人。北宋政治家,“慶曆四諫官”之一。by百度百科
余永楫 余靖,北宋仁宗朝名臣,原名希古,字安道,號武溪。廣東韶關人。生于公元1000年,卒于公元1064年。 他博學廣識,舉凡史記雜家小說, 陰陽律歷,音韻小曲,乃至禪經道典,無所不通。他是個政治家。 他的政治生涯始于宋仁宗天圣二年(1024年),25歲時中進士, 被派任贛縣尉。 踏上宦途之后,歷任秘校、集賢校理、右正言、知制誥等朝官。慶歷三年(1043年) 与歐陽修、蔡襄、王素并列諫官之職, 史稱四直諫。 是年仁宗采納范仲淹的奏議,推行”慶歷新政”。 余靖竭盡全力, 運用直諫職權,監督新政實施。對于民族矛盾他善于化解, 對持續數年的湘蠻之亂,他主張招撫安民,果然收到實效。 由于剛正不阿,敢于對皇帝直言,因而名聲大噪。 后來受讒言遭貶,謫為縣令等地方官,也曾辭職歸田。 在他64歲那年三月, 仁宗駕崩,英宗即位, 他在廣州知州的任職中被擢升為工部尚書,赴任途中染病不治去世,皇帝賜謚號襄,并份贈刑部尚書。
余 靖又是一個外交家。曾三次出使遼國,前兩次載譽而歸,第三次促成宗、遼、 西夏結盟,平息了干戈,功勛彪炳。
余靖也是個軍事家。公元1052年,壯族酋領 儂智高叛亂,占据9個 州,直逼廣州。此時守父喪休假在家,但他急朝廷之急,招募鄉兵,協助防衛。不久奉命停喪任潭州令, 轉瞬又改任桂州知州。 稍后朝廷派他輔助狄青領軍平定叛 亂。 之后他計擒賊酋,使宋廷得以轉危為安。 宋仁宗嘉許他御筆親題:"風采第一,廣南定亂,經略無雙。"
余 靖還是個文史學家。他34歲時任秘書監,隨后任集賢校理,掌管典籍,校正了<<漢 書>>,<<后漢書> >,<<史記>>,等古籍。他所寫的奏折和任知制誥時為皇帝所擬的詔書 以及平時應邀寫的記、銘等(見<<武溪 集>>),精煉無懈,博大精深,富有文采,洵為典范之作。他的詩詞造詣可比唐宋名家。 在現存的<<武溪集>>中有140多首, 每一首都具有极高的 思想性和藝術性。
余 靖是一個清官。他率眾平亂后,把皇帝賞賜的財物,全數轉贈給當地軍民,保持自己兩袖清風的本色。調任時, 他所帶走的不是成箱累笈的金銀珠寶衣服, 而是農耕所需的种子,帶往新任地發展農業生產。他又是一個愛民如子的好官。 甚得民心,公元1060年在邕州(今南 宁)离任另就時,百姓哭道相送,后世有遠識的人建祠樓紀念他。 在韶美市,有一座明代跨街而建的風采樓。在廣州曾有八賢祠余靖受祀其中; 在廣東境內所有名賢祠風采堂, 都是為紀念他而建的。2005年,廣東省紀委宣 教室編 寫了一本<<政聲人去后-----岭南古代廉吏故事>>, 里面有一篇<<北宋名諫 風采流芳>>的記事文,就是彰顯余靖事跡的。by點問頓余風采堂
http://www.yeefungtoy.org/edmonton/Yee_Jing.html
注20)刊誤:書物の内容や文字の誤りを正す。
注21)監本:国子監(=国立大学)校定の出版本。


2020-01-31 (Fri)

李賢は『魏志』を見ている!その32

李賢は『魏志』を見ている!その32

昨夜書いたことを元に、これまでのことをおさらいしておこう。『後漢書』最初の刊本である、北宋淳化監本は、940-944の間に成立。次の北宋代刊本は乾興刊本(1022)であり、1013年成立の『冊府元亀』に見える『後漢書』引文は、時期的に見て淳化監本に基づく。『冊府元亀』は「邪摩堆」に作る。現行の百衲本『後漢書』は、南宋紹興刊本を影印したとされ、列伝末尾に「乾興元年十一月十四日」日付の中書門下牒が掲げられているので、...

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昨夜書いたことを元に、これまでのことをおさらいしておこう。

『後漢書』最初の刊本である、北宋淳化監本は、940-944の間に成立。次の北宋代刊本は乾興刊本(1022)であり、1013年成立の『冊府元亀』に見える『後漢書』引文は、時期的に見て淳化監本に基づく。『冊府元亀』は「邪摩堆」に作る。

現行の百衲本『後漢書』は、南宋紹興刊本を影印したとされ、列伝末尾に「乾興元年十一月十四日」日付の中書門下牒が掲げられているので、紹興刊本はこの乾興刊本を復刻したものであろう。周知のごとく百衲本では「邪摩惟」である。

乾興にやや遅れる景祐刊本は、以後の諸刊本に最も多く用いられているようで、「汲古閣本」「武英殿版」「乾隆四年校刊本」も皆これに基づく。この系統が伝えるのは「邪摩推」である。

李賢注の原初の姿が「邪摩堆」であることは、「今名」の考察から明らかであるし、また『冊府元亀』の成立時期からも、そのことは裏付けられる。

問題は百衲本の「邪摩惟」であるが、淳化刊本を南宋福唐郡庠で重刊した仁寿本では、「邪摩■」の「■」が潰れて文字の体を成していない。無理に察すれば、「忄」よりは「扌」の崩れた形のように見える。

「その25」で書いたことを以下に再掲する。
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b.『呉志』巻十三陸遜伝所引呉録【若不惟算】が「元本」「明南監本」「明北監本」「明毛氏汲古閣本」では「推」となっている。『三国志集解』では、この箇所に「宋本推作惟」と細注が入っている。
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以上、淳化・乾興・景祐の三刊本における「邪摩堆」「邪摩惟」「邪摩推」の変異の流れを窺ってみたが、「邪摩惟」については『太平御覧』『太平寰宇記』上の表記も視野に入れて考えなければ確定的なことは言えないのだろう。

劉攽注から幾許かの考察を試みてきたが、これでスッキリしたなどとは到底言えない。未だ余燼くすぶるの感しきりである。
2020-01-31 (Fri)

李賢は『魏志』を見ている!その31

李賢は『魏志』を見ている!その31

昨夜、劉攽注について書いたが、その劉攽注を読み下しておきたい。【自武帝滅朝鮮使驛】〔劉攽注 劉攽曰使驛按當作譯説已見上〕拙訳「劉攽曰(いわ)く 使驛を按ずるに當(まさ)に譯に作るべきは 説(と)きて已(すで)に上に見ゆ」「已見上」とは、前述したということだろうから、探してみると、「東夷伝」序文にやや詳しく述べてある。乾隆四年校刊『後漢書』東夷伝序文〔劉攽注〕【劉攽曰 使驛不絶按郵驛中國可有之不可通於四夷自...

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昨夜、劉攽注について書いたが、その劉攽注を読み下しておきたい。

【自武帝滅朝鮮使驛】〔劉攽注 劉攽曰使驛按當作譯説已見上〕

拙訳「劉攽曰(いわ)く 使驛を按ずるに當(まさ)に譯に作るべきは 説(と)きて已(すで)に上に見ゆ」

「已見上」とは、前述したということだろうから、探してみると、「東夷伝」序文にやや詳しく述べてある。

乾隆四年校刊『後漢書』東夷伝序文〔劉攽注〕
【劉攽曰 使驛不絶按郵驛中國可有之不可通於四夷自前書皆言使譯使則使者譯則譯人故合作使譯此書内有自作使驛處明是後人不暁妄改之】

拙訳「劉攽曰く 使驛不絶を按ずるに郵驛(=古代の宿場。駅家。うまや)は中國之有る可くも四夷に通づる可からずにして、前書自(よ)り皆使譯と言ふ。使は則(すなは)ち使者、譯は則ち譯人(=通訳)にして故(ゆえ)に合はせて使譯に作る。此(こ)の書の内に自(みづか)ら使驛に作る處(ところ)有るも、明(あきらか)に是れ後人の暁(さと)らずして妄(みだり)に之を改む」

「漢籍電子文献」の校注は以下の通り。

〔按:刊誤謂「驛」當作「譯」。郵驛中國可有之,不可通於四夷,自前書皆言「使譯」,使即使者,譯則譯人〕

劉攽注とほぼ同じ。

2020-01-30 (Thu)

李賢は『魏志』を見ている!その30

李賢は『魏志』を見ている!その30

長澤規矩也解題和刻本正史『後漢書』を見ることが出来た。その「倭伝」を開いて、かなり重要な事実に気がついた。それは劉攽の注である。【自武帝滅朝鮮使驛】に注して〔劉攽曰使驛按當作譯説已見上〕とある。この注が刊本に依って有無が分かれる。・南宋福唐郡庠重刊北宋淳化監本影印仁寿本二十六史『後漢書』→無し・南宋紹興本影印百衲本二十四史『後漢書』→無し・北宋景祐本校刊清乾隆四年刊本→有り・宛陵郡学元大徳九年刊古活...

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長澤規矩也解題和刻本正史『後漢書』を見ることが出来た。その「倭伝」を開いて、かなり重要な事実に気がついた。それは劉攽の注である。