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2020-05-04 (Mon) 11:05

「洮西之戰」での戦死者、「千數」「萬計」「數萬」

『蜀志』張翼伝 延煕十八年(255)
【十八年,與衛將軍姜維俱還成都。維議復出軍,唯翼廷爭,以為國小民勞,不宜黷武。維不聽,將翼等行,進翼位鎮南大將軍。維至狄道,大破魏雍州刺史王經,經眾死於洮水者以萬計。翼曰:「可止矣,不宜復進,進或毀此大功。」維大怒。曰:「為蛇畫足。」維竟圍經於狄道,城不能克。自翼建異論,維心與翼不善,然常牽率同行,翼亦不得已而往。景耀二年,遷左車騎將軍,領冀州刺史。六年,與維咸在劍閣,共詣降鍾會于涪。明年正月,隨會至成都,為亂兵所殺。】

同 姜維伝
【後十八年,復與車騎將軍夏侯霸等俱出狄道,大破魏雍州刺史王經於洮西,經眾死者數萬人。經退保狄道城,維圍之。魏征西將軍陳泰進兵解圍,維卻住鍾題。】

『魏書』高貴郷公紀 正元二年(255)
【八月辛亥,蜀大將軍姜維寇狄道,雍州刺史王經與戰洮西,經大敗,還保狄道城。辛未,以長水校尉鄧艾行安西將軍,與征西將軍陳泰并力拒維。戊辰,復遣太尉司馬孚為後繼。九月庚子,講尚書業終,賜執經親授者司空鄭沖、侍中鄭小同等各有差。甲辰,姜維退還。冬十月,詔曰:「朕以寡德,不能式遏寇虐,乃令蜀賊陸梁邊陲。洮西之戰,至取負敗,將士死亡,計以千數,或沒命戰場,寃魂不反,或牽掣虜手,流離異域,吾深痛愍,為之悼心。其令所在郡典農及安撫夷二護軍各部大吏慰卹其門戶,無差賦役一年;其力戰死事者,皆如舊科,勿有所漏。」
十一月甲午,以隴右四郡及金城,連年受敵,或亡叛投賊,其親戚留在本土者不安,皆特赦之。癸丑,詔曰:「往者洮西之戰,將吏士民或臨陳戰亡,或沈溺洮水,骸骨不收,棄於原野,吾常痛之。其告征西、安西將軍,各令部人於戰處及水次鉤求屍喪,收斂藏埋,以慰存亡。」】
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同じ「洮西之戰」での戦死者の数が三様に違っているように読み取れそうだ。細かくみると、

a.張翼伝:經眾死於洮水者以萬計
b.姜維伝:經眾死者數萬
c.高貴郷公紀:將士死亡,計以千數

前後の文が違うので一概に数値に差があるとは断定できないのだろうが、それにしても差がありすぎるように受け止められる。aとbは「眾」であり、これには多くの(〝多くの〟という意味も)意味があるが、明帝紀に【司馬宣王帥討遼東】とあるように、ここは戦闘場面であるから軍勢の意味にとっていいのだろう。cの「將士」と「」とが同義かどうかは俄には判断しづらいが、「」を軍勢の意味に取るのであれば、ほぼ同義と言えようか。

萬計」は〝万の位〟という意味だろうから漠然としており、訳注では「5桁にのぼる」のような平たい訳も見かける。なので、「數萬」との差異をあげつらうのもいかがなものかと思うが、『呉志』陸遜伝には【凡數萬計】という表現もある。筑摩訳では「あわせると数万人」となっているので、ある程度のニュアンスの違いはあるのかも知れない。

世に〝三国志通〟と言われる人は少なくなかろうから、それらの人々はもっと多くの事例をご存知なのだろう。ご高見を拝聴したいものである。

『呉志』陸遜伝 是歲建安二十四年十一月也。
【遜遣將軍李異、謝旌等將三千人,攻蜀將詹晏、陳鳳。異將水軍,旌將步兵,斷絕險要,即破晏等,生降得鳳。又攻房陵太守鄧輔、南鄉太守郭睦,大破之。秭歸大姓文布、鄧凱等合夷兵數千人,首尾西方。遜復部旌討破布、凱。布、凱脫走,蜀以為將。遜令人誘之,布帥眾還降。前後斬獲招納,凡數萬計。權以遜為右護軍、鎮西將軍,進封婁侯。】

筑摩『三国志Ⅲ』264頁
「この一連の作戦の中で斬ったり捕虜にしたり、また帰順させたりした者の数は、あわせると数万人にもなった。」

※原文は「漢籍電子文献」による。
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最終更新日 : 2020-05-04

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