「魏志倭人伝」への旅 ブログ版

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2020-05-06 (Wed) 23:14

「九州王朝説」を真に受ける人

隋煬帝の「宴東堂詩」という詩について検索しているうちに、「備忘録として」というブログに遭遇した。

その一項として「九州王朝」2013-10-15 23:19:52というのがあったので読んでみる。
https://blog.goo.ne.jp/yoshinogawa3/e/7df6216be4335667d6a890d76775c219

「遣隋使の派遣年次が日本書紀と隋書では異なっている。遣隋使の答礼使である裴世清は、九州までしか訪問せず、大和には行ってない。」
「九州王朝説を完全に真正面から否定する反論にはまだお目にかかっていないのである。」


こういう認識の方は結構見かける。恐らくは『隋書』に直接当ったことなど無いのかも知れない。古田氏の『失われた九州王朝』の解釈に沿って「裴清の道行き文」を読めば、俀都邪靡堆が九州にあるとは読みようがないことはすぐに分かる。

「まだお目にかかっていない」とは〝物は言いよう〟と言ってもいい。古田氏の行論が如何に我田引水の詭弁強弁に満ちているか、古田氏の著作を繰り返し読んでゆけば大方気がつくことである。フツーの学者研究者専門家は古田説など相手にすることの無益さを直感的に肌で感じるのではないか。安本氏など一部の人々が反論を試みるが、古田氏との議論の「無益さ」を再確認するに終始したろうであることは想像に難くない。

因みに「九州までしか訪問せず、大和には行ってない」とは古田氏の所論(12年のズレ)に相反する。それに、推古紀の記録が全くの捏造であるとするなら、こんなお気楽なことはない。国内に何の記録もない九州王朝を夢想し、細かい記録のある『書紀』を無視するという姿勢は、そもそも歴史の構築という作業になじまない。

このブログ氏の記事を見るに、かなり知的好奇心に溢れているように窺えるが、こういう方が古田説に引きずり込まれる例は、これまで幾つか目にしてきたので驚くには当たらない。

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最終更新日 : 2020-05-06

No Subject * by 形名
ひひひ。泣けてくる。ナイス。

Re: 形名 様へ * by hyena_no_papa
形名さん、こんにちわ(^^)

>ひひひ

好きですね~、こういう笑いって(❁´◡`❁)

「磐井王朝の滅亡」(2書p340)と言いながら70年余すると「日出づる処の天子」と誇りやかに宣言(2書p310)しているんだそうです。「天皇家の領域を、内にふくんで」ですね。滅亡した王朝が〝奇跡の復活〟を遂げた!ということなんでしょう。磐井王朝を滅ぼした側が「内に」含まれる!なんてオドロキ以外のなにものでもありません。

『失われた九州王朝』読んだ人、気が付かないんですよね。この不思議さに、、、

古田氏の『失われた九州王朝』について * by レインボー
古田氏の『失われた九州王朝』についての記事、ありがとうございます。

小生も、古田氏の『失われた九州王朝』については批判があります。

そこで、九州倭国については、どのように考えておられますか。特に、旧唐書に倭国は北九州にあったと読めますが。
草々

Re: レインボー 様へ * by hyena_no_papa
レインボーさん、コメントありがとうございますm(_ _)m

>旧唐書に倭国は北九州にあったと読めますが

その「あったと読め」るというのは具体的にどの部分でしょうか?宜しくご案内のほどお願いいたします。

裴清の行路 * by 宮津徳也
巨象に問う蟻一匹です。
「大海の中に在り・・俀に属する『也』」の一文は、華夏に似た秦王国の紹介文を挿入して特筆したのではないでしょうか。したがって道行としては「大海から・・十余国を経て海岸に達す=既にかの都」。方向は対馬・大海と南であり、九州西岸から有明海沿岸へ入ったのでは。このことは魏志の南への並びである不彌国ー投馬国ー邪馬臺国と一致します。
書紀との齟齬は、裴清が九州に来たあくる年(大業4年/608)を推古16年に繰り上げ、17年の裴清が来た大和での出来事を16年のこととしたと思われます。丈六仏光背銘は書紀に合わせて改ざんしたものです。なぜなら裴清は本尊丈六仏のない法興寺で参拝という矛盾があるからです。「畢竟、元興寺に坐(マ)す」のは明年己巳(609年/推古17)だからです。
書紀にとって九州王朝はあってはならない存在ですから、当然隠ぺいされます。奇しくも大和説の盤石の証拠と思われた光背銘が、推古天皇が俀王に附庸する地方王である倭皇(ヤマトノキミ)であることを証明しているとみます。
間違いをご教授いただければ幸いです。

隋書・本紀・煬帝紀 * by 宮津徳也
付け足しです。

大業4(608)年3月、百濟・倭・赤土・迦羅舎国並びに使を遣し方物を貢ず

大業6(610)年正月、倭国、使を遣し方物を貢ず

「推古17(609)年9月、小野妹子らが帰る」で、煬帝紀・推古紀で食い違っています。小野妹子らはこの帝紀の610年の正月に謁見し帰国、実は推古18年の9月に大和に着いたのでしょう。この一年のズレが九州滞在です。つまり裴清が九州に居たのは、608年からあくる609年の6月に難波津に着くまでのほぼ1年、これを抹消したのです。巧妙です。
609年9月難波発の、裴清の送使小野らがが610年正月に朝貢したのでしょう。
隋書もまた俀国=九州を支持しているように思われます。

Re: 宮津徳也 様へ * by hyena_no_papa
宮津徳也様、詳細なコメントをお寄せ下さり、ありがとうございます。

申し訳ないのですが、まず冒頭2行目から5行目までの趣旨が理解できません。

できるだけ『隋書』の記事に沿ってお書きいただければ当方の理解も進むのではないかと愚考いたしますので、宜しくお願いいたします。


古代史でホームスティ * by 宮津徳也
どうも失礼しました。

中国の正史『隋書』に、俀国と書かれた7世紀初頭の日本の、その都の在り処を探求しています。『隋書・俀国伝』には隋王朝の煬帝が文林郎裴世清を俀国に派遣する記事があります。そこに百済に渡り俀国の都に至るルートが書かれています。このルートをたどれば都の位置が分かります。『隋書』には

明年(608年) 上(煬帝)、文林郎裴淸を使として俀国に遣す。百濟を度(ワタ)りて竹島に至る。南に聃羅國を望み、都斯麻(ツシマ)國を經て、逈(ハル)かに大海の中に在り。又東して一支國に至り、又竹斯(チクシ=ツクシ)國に至り、又東して秦王國に至る。其人(秦王国の人)華夏に同じ。夷洲と為すも疑いを明らかにできず。又、十餘國を經て海岸に達っす。竹斯國より東は皆俀に附庸(フヨウ)す。俀王、小徳阿輩臺を遣わし・・既に彼の都に至る。(下手な訳文でゴメン)

通説は百済から彼都まで順次羅列で読んでいきます。「海岸に達す」は御説の通り「海から海岸に達した」でしょう。ですから筑紫から海を東に進み(瀬戸内海)、十餘國を經て難波辺りの海岸に達したと考えるようです。推古の居る大和盆地の飛鳥が難波の海岸からみて「既に彼の都に至る」は多少問題もありますが。それ以上に問題なのは、筑紫より東は「皆、俀に附庸する」、です。皆は当然大和も含みますから(東限は不明)、俀に附庸するのですか。附庸は宗主国に対する語だと理解しています。辞典的には「大国に付き従う国」です。彼の都が俀に附庸するというのは矛盾ですね。

そのため「百済を度り・・逈大海中に"在"り」で切り、次の文から大海中を漕ぐ船から見ての東方向に壱岐・筑紫・十余国・秦王国と並んでいると説明しています。なぜか、秦王国の人が華夏(中国)と同じであり、夷州(台湾を指すか)かとも疑うが明らかにできない、という驚きのエピソードを記録するためです。大海中から東へ航海したのではありません。ですから文章の構造として「不能明"也"」と切っています。「又、十餘國を經て海岸に達っす」は再び大海中から(方角は省略されるも南は明らか)続く行路です。

なんども論じられた問題ですね。これは有明海沿岸説とでもいうのでしょうか、川村さんの論文で教えられましたが、川村さんはこの論を取り下げられているようです。この論を取り入れてもいいですかと伺ったところ「どうぞ」ということでした。ご返信の「趣旨が理解できません」が論争史を承知の上ならこれ以上は・・。「邪馬台国・・集まれ」のころは賑やかでしたが、最近は古代史に関心を持つ人が少ないのか、淋しいですね。ネットサーフインでハイエナさんの名を見つけ、懐かしくて投稿させて頂きました。

Re: 宮津徳也 様へ * by hyena_no_papa
宮津徳也さん、おはようございます。

まず初めに、
>「邪馬台国・・集まれ」のころは賑やかでしたが
とのことで私のHNを既にご存じのようですが、私としては宮津徳也さんのお名前が思い当たりません。多分HNで参加されていたんでしょう。いずれにしてもYahoo!掲示板時代をご存じの方と再会するのは懐かしいことです。

拝見するところ独自の説をお持ちのようですのでそれを大切になさるというのもいいのではないかと思います。

その上で当方の所説に対して疑問等お持ちなのでしょうから要点のみご返信差し上げたいと思います。

まず所謂「裴清の道行き文」については私のホームページで1ページを設けてありますので、そちらをご覧いただきましたら当方の考えるところは理解していただけるのではないかと思います。
「裴清の道行き文」
http://hyenanopapa.obunko.com/haisei_no_michiyukibun.html

川村氏の論考も既にお読みのようですね。お説の中の「方角は省略されるも南は明らか」というのはどこから導き出されるものでしょうか?裴清は概ね東へとしか進んでいないように記述されていると思えるのですが、、、

それと「附庸」の件ですが、以東には竹斯国も含まれますので都のある竹斯国が俀に附庸していることになり矛盾すると考えられます。これも川村氏の既に唱えていることかと思います。

尚、当ブログ中の「「裴清の道行き文」 通説を図示すると・・・」という記事中に、通説の解釈に基づく裴清の辿った行程図を掲載してあります。併せてご覧いただければと思います。
https://hyenanopapa.blog.fc2.com/blog-entry-798.html

ついでに掲示板時代の論争相手の唱える解釈を図にしたものも掲載しております。「「裴清の道行き文」cyber_ek氏による理解」
https://hyenanopapa.blog.fc2.com/blog-entry-797.html

宮津徳也さんも一度手書きでもいいですので自分の解釈を紙の上に描いてみてはいかがでしょうか?勿論『隋書』の文も併せて、、、その図をじっくりと眺めて自分の考えが妥当かどうか思慮してみるというのも、あながち無駄ではないと思います。文字ばかり並べていると、どうしても筋道だった結論に至らないこともありそうですので、、、

長くなりましが、また何か疑問点等ありましたらコメントをお寄せください。3月からはtwitterも同じHNでやっておりますので、そちらもご覧いただければと思います。

取り急ぎ以上ご返信差し上げます。

邪馬台国の位置こそ * by 宮津徳也
早速ご返信をありがとうございます。

> 宮津徳也さんのお名前が思い当たりません
> 独自の説をお持ちのようですのでそれを大切になさるというのもいいのでは

このHNで「Yahoo!掲示板」に投稿していました。もう記憶が定かではないのですが、自分の考えを述べご意見を伺ったとき、あなたは「賛成も支持もできないが、仮説としては成り立ちますよ」と言っていただいたことがあります。これを励みしてずっと古代史に興味を持ち続けてきました。今年で80歳になり気力・体力が衰え、かってのようにはいきません。でも古代史への思いは消えていません、今のところ。自説を大事にする、でいいのですね (^^)。

古田武彦氏も亡くなり、その功罪も歴史に晒されることになりました。皇国史観の残滓を引きづった戦後の史学に、大きなショックを与えたことは間違いないでしょう。その原点ともいえる『魏志倭人伝』の解釈には疑問も多く、「私の邪馬台国」への旅立ちとなりました。学会の重鎮たちの、いわゆる通説はそれ以上に不可解なもので、権威と言われるものの脆弱さに唖然とします。

ところで川村氏も「自竹斯國以東 皆附庸於倭」の位置が「又經十餘國 達於海岸」の後ろであり、ここで切れないというご意見です(かなり以前の話ですが)。つまり定説の読みです。その川村氏が『推古期の謎』の「推古紀の方にも誤りあるいは意図的な書き換えがあるという可能性を考える必要があろう」と指摘されて止まっていますね。小野妹子が帰国(書紀)した翌年正月、「倭国、使を遣し方物を貢ず」(隋書・煬帝紀)るのですから、書紀の書き換えがあったと見ざるを得ず、それを丈六仏光背銘が証明しています。つまり7世紀初頭の歴史は書き換えざるを得ず定説は瓦解します。その局面に気付かれたのではと思っています。

なぜ裴清道行文に拘るかですが、邪馬台国の位置に関係するからです。俀国の都は「邪靡堆に都す 則ち魏志の所謂、邪馬臺なり」。その『魏志倭人伝』は邪馬台国の位置が、近畿でも筑紫でもなく熊本南部と読めるからです。「不彌国の南水行20日投馬国→その南水行水行10日陸行1月邪馬臺」で不彌国から南へ一直線で邪馬臺です。不彌国が定説通り福岡なら邪馬臺は熊本沿岸になります。邪馬臺は熊本ですが、後漢時代や倭の五王の時代は筑紫に、また時に近畿に倭国王(天智など)がいたと思っています。

今の古代史の低調は嵐の前の静けさに思えます。新型コロナに負けず長生きして見届けたいと思っています。twitter拝見しています。ひとまず検察庁法改悪先送りでやれやれですね。では。

Re: 宮津徳也 様へ * by hyena_no_papa
宮津徳也様、早々のご返信ありがとうございます。

>今年で80歳になり

そうでしたか、、、掲示板の投稿氏の中にも鬼籍に入られた方が何人かいらっしゃるようで寂しいことです。逆に久留米在住の福島雅彦さん(yamattai)さんなどは未だにかくしゃくとしてご活躍のようで当方も励みとしております。

>自説を大事にする、でいいのですね (^^)

日本国憲法で保証されている限りに於いては自由だと思います。ただ、議論の場に出てきますと、自説の当否が顕になる場合もあり、私自身めげてしまうこともありました。しかし、それはそれで発奮材料にすればいいわけでしょう。

>邪馬臺は熊本沿岸になります

最近、熊本説の本も読みました。ブックメーターに感想も書きましたが、古田説以外の九州説はあながち全否定するものではありません。九州説諸氏にはもっと頑張ってもらいたいとさえ思っています。

>新型コロナに負けず長生きして見届けたいと思っています

お互いに乾興に注意しつつ今後の古代史界の展開を見届けたいものです。吉野ケ里のようなことも無いとは限りません。自由にものを考えられるのは素人の特権でしょう。いろいろ思考を巡らせるのは楽しいことですね。

※細かい論点について議論を始めれば血圧が上がりそうなので控えておきます。宜しくご理解の程を、、、

「乾興」ではなくて、、、 * by hyena_no_papa
「健康」でした(^^;)  宋代の年号が学習されていたもので、、、

No Subject * by 宮津徳也
> 議論を始めれば血圧が上がりそうなので控えておきます

ははは、そうですか。
ではときどきHPを拝見するに留めます。
私も血圧に不安が・・(^^)

ありがとうございました。

Re: 宮津徳也 様へ * by hyena_no_papa
こちらこそ愛想なしで申し訳ありません。

宮津徳也様はブログかホームページはお持ちではありませんか?もしお持ちなら折を見て拝見させていただきますが、、、

歴史探訪の楽しみも健康あってのことですから、、、また何か思いついたことなどありましたらコメント宜しくお願いいたします。

どうもありがとうございました。

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ひひひ。泣けてくる。ナイス。
2020-05-07-12:17形名 [ 返信 * 編集 ]

hyenanopapa Re: 形名 様へ

形名さん、こんにちわ(^^)

>ひひひ

好きですね~、こういう笑いって(❁´◡`❁)

「磐井王朝の滅亡」(2書p340)と言いながら70年余すると「日出づる処の天子」と誇りやかに宣言(2書p310)しているんだそうです。「天皇家の領域を、内にふくんで」ですね。滅亡した王朝が〝奇跡の復活〟を遂げた!ということなんでしょう。磐井王朝を滅ぼした側が「内に」含まれる!なんてオドロキ以外のなにものでもありません。

『失われた九州王朝』読んだ人、気が付かないんですよね。この不思議さに、、、
2020-05-07-13:54 hyena_no_papa [ 返信 * 編集 ]

古田氏の『失われた九州王朝』について

古田氏の『失われた九州王朝』についての記事、ありがとうございます。

小生も、古田氏の『失われた九州王朝』については批判があります。

そこで、九州倭国については、どのように考えておられますか。特に、旧唐書に倭国は北九州にあったと読めますが。
草々
2020-05-09-16:11 レインボー [ 返信 * 編集 ]

hyenanopapa Re: レインボー 様へ

レインボーさん、コメントありがとうございますm(_ _)m

>旧唐書に倭国は北九州にあったと読めますが

その「あったと読め」るというのは具体的にどの部分でしょうか?宜しくご案内のほどお願いいたします。
2020-05-09-16:39 hyena_no_papa [ 返信 * 編集 ]

裴清の行路

巨象に問う蟻一匹です。
「大海の中に在り・・俀に属する『也』」の一文は、華夏に似た秦王国の紹介文を挿入して特筆したのではないでしょうか。したがって道行としては「大海から・・十余国を経て海岸に達す=既にかの都」。方向は対馬・大海と南であり、九州西岸から有明海沿岸へ入ったのでは。このことは魏志の南への並びである不彌国ー投馬国ー邪馬臺国と一致します。
書紀との齟齬は、裴清が九州に来たあくる年(大業4年/608)を推古16年に繰り上げ、17年の裴清が来た大和での出来事を16年のこととしたと思われます。丈六仏光背銘は書紀に合わせて改ざんしたものです。なぜなら裴清は本尊丈六仏のない法興寺で参拝という矛盾があるからです。「畢竟、元興寺に坐(マ)す」のは明年己巳(609年/推古17)だからです。
書紀にとって九州王朝はあってはならない存在ですから、当然隠ぺいされます。奇しくも大和説の盤石の証拠と思われた光背銘が、推古天皇が俀王に附庸する地方王である倭皇(ヤマトノキミ)であることを証明しているとみます。
間違いをご教授いただければ幸いです。
2020-05-18-18:13 宮津徳也 [ 返信 * 編集 ]

隋書・本紀・煬帝紀

付け足しです。

大業4(608)年3月、百濟・倭・赤土・迦羅舎国並びに使を遣し方物を貢ず

大業6(610)年正月、倭国、使を遣し方物を貢ず

「推古17(609)年9月、小野妹子らが帰る」で、煬帝紀・推古紀で食い違っています。小野妹子らはこの帝紀の610年の正月に謁見し帰国、実は推古18年の9月に大和に着いたのでしょう。この一年のズレが九州滞在です。つまり裴清が九州に居たのは、608年からあくる609年の6月に難波津に着くまでのほぼ1年、これを抹消したのです。巧妙です。
609年9月難波発の、裴清の送使小野らがが610年正月に朝貢したのでしょう。
隋書もまた俀国=九州を支持しているように思われます。
2020-05-18-20:21 宮津徳也 [ 返信 * 編集 ]

hyenanopapa Re: 宮津徳也 様へ

宮津徳也様、詳細なコメントをお寄せ下さり、ありがとうございます。

申し訳ないのですが、まず冒頭2行目から5行目までの趣旨が理解できません。

できるだけ『隋書』の記事に沿ってお書きいただければ当方の理解も進むのではないかと愚考いたしますので、宜しくお願いいたします。

2020-05-18-22:44 hyena_no_papa [ 返信 * 編集 ]

古代史でホームスティ

どうも失礼しました。

中国の正史『隋書』に、俀国と書かれた7世紀初頭の日本の、その都の在り処を探求しています。『隋書・俀国伝』には隋王朝の煬帝が文林郎裴世清を俀国に派遣する記事があります。そこに百済に渡り俀国の都に至るルートが書かれています。このルートをたどれば都の位置が分かります。『隋書』には

明年(608年) 上(煬帝)、文林郎裴淸を使として俀国に遣す。百濟を度(ワタ)りて竹島に至る。南に聃羅國を望み、都斯麻(ツシマ)國を經て、逈(ハル)かに大海の中に在り。又東して一支國に至り、又竹斯(チクシ=ツクシ)國に至り、又東して秦王國に至る。其人(秦王国の人)華夏に同じ。夷洲と為すも疑いを明らかにできず。又、十餘國を經て海岸に達っす。竹斯國より東は皆俀に附庸(フヨウ)す。俀王、小徳阿輩臺を遣わし・・既に彼の都に至る。(下手な訳文でゴメン)

通説は百済から彼都まで順次羅列で読んでいきます。「海岸に達す」は御説の通り「海から海岸に達した」でしょう。ですから筑紫から海を東に進み(瀬戸内海)、十餘國を經て難波辺りの海岸に達したと考えるようです。推古の居る大和盆地の飛鳥が難波の海岸からみて「既に彼の都に至る」は多少問題もありますが。それ以上に問題なのは、筑紫より東は「皆、俀に附庸する」、です。皆は当然大和も含みますから(東限は不明)、俀に附庸するのですか。附庸は宗主国に対する語だと理解しています。辞典的には「大国に付き従う国」です。彼の都が俀に附庸するというのは矛盾ですね。

そのため「百済を度り・・逈大海中に"在"り」で切り、次の文から大海中を漕ぐ船から見ての東方向に壱岐・筑紫・十余国・秦王国と並んでいると説明しています。なぜか、秦王国の人が華夏(中国)と同じであり、夷州(台湾を指すか)かとも疑うが明らかにできない、という驚きのエピソードを記録するためです。大海中から東へ航海したのではありません。ですから文章の構造として「不能明"也"」と切っています。「又、十餘國を經て海岸に達っす」は再び大海中から(方角は省略されるも南は明らか)続く行路です。

なんども論じられた問題ですね。これは有明海沿岸説とでもいうのでしょうか、川村さんの論文で教えられましたが、川村さんはこの論を取り下げられているようです。この論を取り入れてもいいですかと伺ったところ「どうぞ」ということでした。ご返信の「趣旨が理解できません」が論争史を承知の上ならこれ以上は・・。「邪馬台国・・集まれ」のころは賑やかでしたが、最近は古代史に関心を持つ人が少ないのか、淋しいですね。ネットサーフインでハイエナさんの名を見つけ、懐かしくて投稿させて頂きました。
2020-05-19-01:34 宮津徳也 [ 返信 * 編集 ]

hyenanopapa Re: 宮津徳也 様へ

宮津徳也さん、おはようございます。

まず初めに、
>「邪馬台国・・集まれ」のころは賑やかでしたが
とのことで私のHNを既にご存じのようですが、私としては宮津徳也さんのお名前が思い当たりません。多分HNで参加されていたんでしょう。いずれにしてもYahoo!掲示板時代をご存じの方と再会するのは懐かしいことです。

拝見するところ独自の説をお持ちのようですのでそれを大切になさるというのもいいのではないかと思います。

その上で当方の所説に対して疑問等お持ちなのでしょうから要点のみご返信差し上げたいと思います。

まず所謂「裴清の道行き文」については私のホームページで1ページを設けてありますので、そちらをご覧いただきましたら当方の考えるところは理解していただけるのではないかと思います。
「裴清の道行き文」
http://hyenanopapa.obunko.com/haisei_no_michiyukibun.html

川村氏の論考も既にお読みのようですね。お説の中の「方角は省略されるも南は明らか」というのはどこから導き出されるものでしょうか?裴清は概ね東へとしか進んでいないように記述されていると思えるのですが、、、

それと「附庸」の件ですが、以東には竹斯国も含まれますので都のある竹斯国が俀に附庸していることになり矛盾すると考えられます。これも川村氏の既に唱えていることかと思います。

尚、当ブログ中の「「裴清の道行き文」 通説を図示すると・・・」という記事中に、通説の解釈に基づく裴清の辿った行程図を掲載してあります。併せてご覧いただければと思います。
https://hyenanopapa.blog.fc2.com/blog-entry-798.html

ついでに掲示板時代の論争相手の唱える解釈を図にしたものも掲載しております。「「裴清の道行き文」cyber_ek氏による理解」
https://hyenanopapa.blog.fc2.com/blog-entry-797.html

宮津徳也さんも一度手書きでもいいですので自分の解釈を紙の上に描いてみてはいかがでしょうか?勿論『隋書』の文も併せて、、、その図をじっくりと眺めて自分の考えが妥当かどうか思慮してみるというのも、あながち無駄ではないと思います。文字ばかり並べていると、どうしても筋道だった結論に至らないこともありそうですので、、、

長くなりましが、また何か疑問点等ありましたらコメントをお寄せください。3月からはtwitterも同じHNでやっておりますので、そちらもご覧いただければと思います。

取り急ぎ以上ご返信差し上げます。
2020-05-19-09:06 hyena_no_papa [ 返信 * 編集 ]

邪馬台国の位置こそ

早速ご返信をありがとうございます。

> 宮津徳也さんのお名前が思い当たりません
> 独自の説をお持ちのようですのでそれを大切になさるというのもいいのでは

このHNで「Yahoo!掲示板」に投稿していました。もう記憶が定かではないのですが、自分の考えを述べご意見を伺ったとき、あなたは「賛成も支持もできないが、仮説としては成り立ちますよ」と言っていただいたことがあります。これを励みしてずっと古代史に興味を持ち続けてきました。今年で80歳になり気力・体力が衰え、かってのようにはいきません。でも古代史への思いは消えていません、今のところ。自説を大事にする、でいいのですね (^^)。

古田武彦氏も亡くなり、その功罪も歴史に晒されることになりました。皇国史観の残滓を引きづった戦後の史学に、大きなショックを与えたことは間違いないでしょう。その原点ともいえる『魏志倭人伝』の解釈には疑問も多く、「私の邪馬台国」への旅立ちとなりました。学会の重鎮たちの、いわゆる通説はそれ以上に不可解なもので、権威と言われるものの脆弱さに唖然とします。

ところで川村氏も「自竹斯國以東 皆附庸於倭」の位置が「又經十餘國 達於海岸」の後ろであり、ここで切れないというご意見です(かなり以前の話ですが)。つまり定説の読みです。その川村氏が『推古期の謎』の「推古紀の方にも誤りあるいは意図的な書き換えがあるという可能性を考える必要があろう」と指摘されて止まっていますね。小野妹子が帰国(書紀)した翌年正月、「倭国、使を遣し方物を貢ず」(隋書・煬帝紀)るのですから、書紀の書き換えがあったと見ざるを得ず、それを丈六仏光背銘が証明しています。つまり7世紀初頭の歴史は書き換えざるを得ず定説は瓦解します。その局面に気付かれたのではと思っています。

なぜ裴清道行文に拘るかですが、邪馬台国の位置に関係するからです。俀国の都は「邪靡堆に都す 則ち魏志の所謂、邪馬臺なり」。その『魏志倭人伝』は邪馬台国の位置が、近畿でも筑紫でもなく熊本南部と読めるからです。「不彌国の南水行20日投馬国→その南水行水行10日陸行1月邪馬臺」で不彌国から南へ一直線で邪馬臺です。不彌国が定説通り福岡なら邪馬臺は熊本沿岸になります。邪馬臺は熊本ですが、後漢時代や倭の五王の時代は筑紫に、また時に近畿に倭国王(天智など)がいたと思っています。

今の古代史の低調は嵐の前の静けさに思えます。新型コロナに負けず長生きして見届けたいと思っています。twitter拝見しています。ひとまず検察庁法改悪先送りでやれやれですね。では。
2020-05-19-12:12 宮津徳也 [ 返信 * 編集 ]

hyenanopapa Re: 宮津徳也 様へ

宮津徳也様、早々のご返信ありがとうございます。

>今年で80歳になり

そうでしたか、、、掲示板の投稿氏の中にも鬼籍に入られた方が何人かいらっしゃるようで寂しいことです。逆に久留米在住の福島雅彦さん(yamattai)さんなどは未だにかくしゃくとしてご活躍のようで当方も励みとしております。

>自説を大事にする、でいいのですね (^^)

日本国憲法で保証されている限りに於いては自由だと思います。ただ、議論の場に出てきますと、自説の当否が顕になる場合もあり、私自身めげてしまうこともありました。しかし、それはそれで発奮材料にすればいいわけでしょう。

>邪馬臺は熊本沿岸になります

最近、熊本説の本も読みました。ブックメーターに感想も書きましたが、古田説以外の九州説はあながち全否定するものではありません。九州説諸氏にはもっと頑張ってもらいたいとさえ思っています。

>新型コロナに負けず長生きして見届けたいと思っています

お互いに乾興に注意しつつ今後の古代史界の展開を見届けたいものです。吉野ケ里のようなことも無いとは限りません。自由にものを考えられるのは素人の特権でしょう。いろいろ思考を巡らせるのは楽しいことですね。

※細かい論点について議論を始めれば血圧が上がりそうなので控えておきます。宜しくご理解の程を、、、
2020-05-19-13:16 hyena_no_papa [ 返信 * 編集 ]

hyenanopapa 「乾興」ではなくて、、、

「健康」でした(^^;)  宋代の年号が学習されていたもので、、、
2020-05-19-13:19 hyena_no_papa [ 返信 * 編集 ]

No Subject

> 議論を始めれば血圧が上がりそうなので控えておきます

ははは、そうですか。
ではときどきHPを拝見するに留めます。
私も血圧に不安が・・(^^)

ありがとうございました。
2020-05-19-18:00 宮津徳也 [ 返信 * 編集 ]

hyenanopapa Re: 宮津徳也 様へ

こちらこそ愛想なしで申し訳ありません。

宮津徳也様はブログかホームページはお持ちではありませんか?もしお持ちなら折を見て拝見させていただきますが、、、

歴史探訪の楽しみも健康あってのことですから、、、また何か思いついたことなどありましたらコメント宜しくお願いいたします。

どうもありがとうございました。
2020-05-19-18:29 hyena_no_papa [ 返信 * 編集 ]