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2020-05-10 (Sun) 23:47

『魏志』呂布伝 裴注『英雄記』の「五千餘里」

筑摩『三国志』をよんでいるが、『魏志』呂布伝 裴注『英雄記』に「五千餘里」が出てくる。「漢籍電子文献」から原文を。

【布,五原人也,去徐州五千餘里,乃在天西北角,今不來共爭天東南之地。】

時代は建安年間で後漢末だから古田氏の「魏西晋朝短里説」の対象となる時代では当然ない。しかしちょっと調べてみようと思った。

まず五原郡から。

『通典』州郡 古雍州 五原郡【去東京二千一十里】

唐代の一里は約560m。後漢代414mに換算すると2720里。

次は徐州。

『通典』州郡 古徐州【後漢並因前代。理於郯,今臨淮郡下邳縣。魏晉亦曰徐州。領郡國七,理彭城,今郡。】

ということなので徐州の位置としては、

『後漢書』郡国志 【徐州東海郡 高帝置。雒陽東千五百里。十三城,戶十四萬八千七百八十四,口七十萬六千四百一十六。郯本國,刺史治。】あたりが参考になるか?

よって徐州~五原郡間は1500+2720=4220里ほど。これを「五千餘里」というのは若干〝盛って〟ると言えようが、遠いことを言いたいがためであるから許容範囲内か。

思い出すのは古田氏と山尾氏の「目くじら論争」。3300里を4000里と表現するのは是か非か。両例とも2割ほどの〝盛り方〟だから、山尾氏の〝目くじらを立てるほどではない〟に軍配を挙げるのが妥当。
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最終更新日 : 2020-05-10

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