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2020-05-13 (Wed) 11:52

古田氏は言う「学問の名には遠い」と

古田武彦『古代は輝いていたⅢ 法隆寺の中の九州王朝』225-226頁
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とすれば、“推古紀の対大唐外交記事を十年以上(おそらく十二年)くり下げて解すべし"、とするわたしの仮説、それが当をえていること、それがここに決定的な確証をえているのではあるまいか。何よりも、この時点なら、まさに相手国の国名は「大唐」なのであるから。

以上で推古朝の対隋外交という、かつて、誰人にも疑われなかった定説を非とし、推古朝の対唐外交こそ、史上の真実であるとする論証を終わった。

それはまた同時に、近畿天皇家とは別在する、しかも、先住する、九州王朝実在の論証であった。
これを非とする論者は、今後ももちろん存在してよかろう。しかしそのさいは、右の論証の一つ一つに対する反証が必要とせられよう。それなしに従来の通説に依拠しつづけて叙述するとしたら、それは僭越ながら、学問の名には遠いもの、そのようにみなされねばならぬのではあるまいか。

(なお付言する。唐初における推古朝の対唐外交が『旧唐書』などに記載されていないのはなぜか、という問題だ。中国側の史書は、各夷蛮の代表の王者との国交をその夷蛮伝に記すことを常としている。これ以外に、各夷蛮内部の「別国の王」「分流の王」たちが競って中国の天子に遣使したこと、それは当然だ。また、中国側も、これに応答したことであろう。しかし、それらはいちいち史書内に記録されるとは限らない。むしろ、記録されない方が通例なのである。
『旧唐書』は、七世紀段階では「倭国」〈九州王朝〉を代表の王者とみなし、八世紀初頭にいたってはじめて「日本国」〈近畿天皇家〉をもって代表の王者と見なした。ーこの点後述。
それにしても、隋から唐への転換の直後、この新興の唐朝へ遣使した近畿天皇家〈推古朝〉の外交政策は、まことに機敏であると共に、その後の展開〈白村江の戦いなど〉への大きな伏線となった。この点、以下の論述で明らかにされよう。)
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「学問の名には遠い」と言い放つ古田氏ではあったが、この著作から10年を経ずして氏が巻き込まれることになった「東日流外三郡誌」事件における古田氏の言説こそ、「学問の名には遠い」と断じても大過ないと言えよう。

「まさに相手国の国名は「大唐」なのであるから」とするが、ならば舒明2年から4年にかけて「大唐」に遣わされた犬上三田耜についてはどう解釈するのか?三田耜は帰朝の際、高表仁を伴っている。この時点での「十年以上(おそらく十二年)くり下げ」はどうなるのか?説明がつかないと思うが、、、

「別国の王」「分流の王」たち」が「いちいち史書内に記録されるとは限らない」と言いつつ、それでは『隋書』帝紀では「別国」「分流」である倭国(畿内)の遣使が記され、「各夷蛮の代表の王者との国交を」帝紀に記さないのは何故か?

史上の真実であるとする論証」と謳ってはいるが上述のごとく我田引水としか言いようのない論法である。

同日追記)説明不足かも知れないので書き加えておく。犬上君御田耜、矢田部造は隋の大業10年から11年にかけて「大唐」に遣わされている。これを繰り下げれば舒明朝の遣使と相接近してしまうことについてである。

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最終更新日 : 2020-05-13

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