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2020-05-26 (Tue) 23:15

蒋済伝 建安十三年の疫病

『魏志』蒋済伝(筑摩Ⅰp434)を読んでいるが、建安十三年(208)の疫病が出てくる。曹操の荊州征討の年であり、もちろんこの時の「疫病」とは、例の「赤壁の戦い」の際に流行して魏軍敗退の一要因となったとされる疫病のことである。

蒋済伝の原文を「漢籍電子文献」から引く。
【建安十三年,孫權率眾圍合肥。時大軍征荊州,遇疾疫,唯遣將軍張喜單將千騎,過領汝南兵以解圍,頗復疾疫。】

いつもながらの拙い訳出を以下に。
〈拙訳〉
建安十三年,孫權は眾を率ひて合肥を圍む。時に大軍は荊州を征すも,疾疫に遇ひ,唯(ただ)將軍張喜を遣はし單(ひとり)千騎を將(ひき)ひて,過ぐるに汝南の兵を領し以て圍みを解くも,頗(すこぶ)る疾疫を復す。

大軍とは勿論、曹操率いる魏軍のこと。ここには赤壁の戦いそのものは記されていない。

大方『魏志』に於ての「赤壁」の記述は薄く、『呉志』に於て豊かであることは察するに難くはない。しかし、〝船を焼く〟話は武帝紀には無く、郭嘉伝に【後太祖征荊州還,於巴丘遇疾疫,燒船】とあるくらいでその詳細は専ら『呉志』による。

郭嘉伝にしても、読みようでは〝疫病に遭ったから船を焼いた〟と読めなくもない。つまり防疫のためである。

「赤壁」で勝ったのは南軍(呉軍)であることは間違いないが、北軍(魏曹操の軍)が敗れた相手は南軍ではなく「疫病」だったと言っても過言ではないのかもしれない。

2020/5/27訂正)「南軍(呉蜀の連合軍)」と書いたが、建安十三年は劉備はまだ蜀に入っておらず誤り。よって訂正。劉備が劉璋を降して成都に入るのは建安十九年(214)のこと。
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最終更新日 : 2020-05-27

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