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2020-08-31 (Mon) 23:24

藤本光幸氏、西暦と和暦とを混同して「偽書説」を〝誤謬〟と!

『季刊邪馬台国93号』原田実氏「『東日流外三郡誌』近年の動向」p134
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 西暦と元号のはざまで

 さて、古田武彦氏の支援組織の機関紙『多元』69号には、藤本光幸氏が「平成15年に東奥日報社の斉藤光政記者に送った手紙の内容」なるものが資料として掲載されている。その中で藤本氏は『東奥日報』に掲載された『三郡誌』批判記事について証人の証言に誤りがあると主張する。
 まず藤本氏は故・和田喜八郎の親族(原文・実名、ここでは仮にA氏とする)が「古文書が落ちてきたとされる四十七年ごろ私はこの家に住んでいましたが。(ママ)そんな出来事はありませんでした」と証言したことに対し、次のように述べる。
 「古文書が天井から落ちてきたのは、昭和二十二年頃であり、しかもその頃、Aは和田喜八郎の隣に住んでおり、屋敷の境界争いの事で、和田喜八郎と訴訟をしております。」 「したがってAは、古文書が落ちてきたとされる、その当時住んでいません。」
 また、安本美典氏がやはりA氏の 「存在しない文書がありもしない天井を突き破るわけがありません」 という証言をとりあげていることに対し、次のように述べる。
 「(安本氏は)『和田家文書』の落下が昭和二十二年八月であることを知らないで、昭和四十七年ころと思っているのです。そのような誤謬があるのです。」
 だが、この件で誤謬を犯しているのは『東奥日報』紙や安本氏ではなく、藤本氏の方である。A氏の証言にいう「四十七年ごろというのは西暦で一九四七年のことだ。つまり昭和では二十二年にあたる。一方、藤本氏が 「四十七年ごろ」について「その頃」起きたとみなす和田喜八郎とA氏との訴訟は昭和四十七年(西暦一九七二)頃の事柄である(第一、一九四七年にはA氏はまだ子供で訴訟をするどころではない)。
 つまり、藤本氏は西暦で書かれた証言を元号(昭和)で書かれたものと読み違えて論難しているのだ。現在の新聞記事では特にことわりがないかぎり、年号は西暦で示すのが常識なのだが、藤本氏はそれを理解していなかったようだ。
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以下、本日ツイートより。
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twitter 午後1:49 · 2020年8月31日
この『多元69号』は2005年9月。『季刊邪馬台国』51号以降、さんざん取り上げられてきた「和田家文書」落下の時期について藤本氏が全く把握していないことには驚きしか。51号から10年以上を経ています。「四十七年」は1947年のこと。西暦と和暦とを混同した上に「偽書派」の主張を全く知らないとは!
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twitter 午後10:33 · 2020年8月31日
この話を最初に知ったのはYahoo!掲示板時代でした。とある偽書派の方(確かには覚えていませんが原田実氏かも)の書き込みでした。その時は俄には信じられなくて脳内保留。『季刊邪馬台国』にも掲載されていたのですが読んでいませんでした。1993/6/1のNHK「ナイトジャーナル」も見ていないとか? --------------------------------------------------- twitter 午後10:37 · 2020年8月31日 藤本氏のこの文は『多元69号』は2005年9月掲載ですから、75歳で亡くなる前月ということに。10年以前の記憶が曖昧になっていた可能性もあるかも知れませんが、西暦と和暦を混同した上で隣家との境界争いについて言及していますから、認知機能低下でもなさそうです。ホントに知らなかったんですね、、、 --------------------------------------------------- twitter 午後10:40 · 2020年8月31日 「擁護派」あるいは「偽書説」に懐疑的な人に出会って思うことは、偽書説がどれほど多くの根拠に基づいているのか?ということを知らない!という点です。原田実氏の「『東日流外三郡誌』近年の動向」によれば、古田氏はこの落下の時期の混乱を〝誤記 誤植〟と決めつけているんですね。93号p136。 ---------------------------------------------------
twitter 午後10:43 · 2020年8月31日 そのような説明は少なくとも「偽書派」の人には通用しないと思います。1975年の市浦版『東日流外三郡誌』「出版に薦言す」では喜八郎氏が「小学生の頃」「私の父はひところこれを気味悪いものとして消却しようとした時、祖母に強く叱られた事があった」と明記してあります。 --------------------------------------------------- twitter 午後10:47 · 2020年8月31日 続けて「父と相談して、この箱を開いたのが昭和三十二年の春であった」とも。1975年時点では既に家伝の古文書について小学生だった喜八郎氏初め家族が知っており、s32になってから「箱を開いた」!これがどうして〝誤記 誤植〟で説明できるのか?驚くしかありません。 --------------------------------------------------- twitter 午後10:53 · 2020年8月31日 『新・古代学 第8集』p50に書かれてあるとのこと。つまり、古田派内部の人向けのアナウンスなのでしょう。会の人達はそれで納得するのかも知れません。何しろ藤本氏ですらそのような誤認に陥っているのですから一般会員の方が多くの「偽書派」の論考を読んでいるなど期待するほうがムリなのかも。
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最終更新日 : 2020-08-31

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