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2020-09-08 (Tue) 11:47

『東日流外三郡誌』が車力村に横流しされた経緯

『津軽発『東日流外三郡誌』騒動』p104-105
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A氏は、東日流外三郡誌という書名は明かさなかった。私が、それが和田喜八郎から持ちこまれたものをA氏がコピーし、手許に残したものであることに気づいたのは、平成五年になってからであった。東日流外三郡誌は和田喜八郎製作の偽書であるという、季刊邪馬台国誌の糾弾がはじまってからである。

私は、東日流外三郡誌を入手こそしたが、直観的に信憑性に疑念をいだき播くことをしていなかった。

私が編者豊島勝蔵氏を訪問し、A氏宅での前述の体験を話題にした時、豊島氏は、次のような経緯を明かしてくれた。

昭和四十年代の後半でも、コピー機が珍しい時代で、どこにでもあるというものではなかった。土地家屋調査士のA氏は商売がらコピー機を所有していた。和田は自作の原本ではなく、コピーしたものを市浦村に持ちこむために、一部しかコピーを取らない約束でA氏にコピーを取ることを依頼した。
しかし、A氏は約束を違え、複数部数のコピーを取り、自分の手許にも残したのである。狡猾というべきか、卑劣というべきか。A氏はそのコピーを車力村史編者工藤達氏に横流しした。これによって、昭和四十八年十二月二十五日に刊行された「車力村史」に東日流外三郡誌が引用されていたのである。どれ位の金銭が授受されたかは不明である。

このことが発覚し、A氏は市浦村史編纂委員を解任された。市浦村では、昭和四十六年頃から、和田喜八郎が小出しに持ちこんだ東日流外三郡誌をその都度、金を払いコピーを取り、村おこしのための村史の編集に着手していた。しかし、和田からの文書が和田の筆跡に似ていること、コピーしか見せないことに疑念を持ったが、車力村史に先をこされたことから発刊をいそぎ、昭和五十年四月一日、東日流外三郡誌の一部を市浦村史資料編上巻として公刊したのである。

以上のことだけで、私の千坂氏に話すことは終った。失望をかったかもしれない。

千坂氏はこの機会に飯詰の高館城を見てから小泊まで歩をのばしたいということだった。
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本文中「A」は氏名を明記。拙ブログ「『東奥日報』の1992年8月29日の記事」中の「B氏」と同一人物である。


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最終更新日 : 2020-09-08

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