「魏志倭人伝」への旅 ブログ版

邪馬台国研究の基本文献「魏志倭人伝」とその関連史書を探求する

Top Page › 倭史雜攷 › 古田氏が「寛政原本」という『東日流外三郡誌 二百十巻』について
2020-09-11 (Fri) 23:21

古田氏が「寛政原本」という『東日流外三郡誌 二百十巻』について

『古代に真実を求めて 古田史学論集第十一集』古田武彦「寛政原本と学問の方法」
---------------------------------------------------------------------------
p15
それらの文書のほとんどは、わたしが知っている和田家文書です。この文書は和田喜八郎さんの息子さんの孝さんから藤本光幸さんにあずけられた。ですからほとんどの文書は、(明治写本として)わたしのよく知っている文書だった。ところがその中に一つ、わたしのまったく知らない文書があった。「寛政五年七月、東日流外三部誌二百十巻、飯積邑和田長三郎」とあります。最後は「郎」でしょうね。よく見えませんが。表紙には見えませんが、もしこの下に名前があったとしたら「吉次」。「長三郎」という名前は代々引き継ぐものですから「寛政」という時代なら「吉次」。ご覧になれば、お分かりのように、ぼろぼろで今にも壊れそうです。内容は、禅宗系である寺院関係の文書の八割が文章で詩や漢文。残り二割が美しいひらがなの詩など。何種類かのいくつもの筆跡で書かれています。最後に書かれた方がいちばん字が下手です。字が下手なだけでなく、詩も創りかけで間違えている。字などはたとえば何回も「鼎」という字を書き損じて、困っているところがあります。これなどはまさに貴重なことです。それまでの字は、非常に美しい字です。そして本文とは同一ではないのです。最後にこれらを綴じて、『東日流外三郡誌二百十巻』となっています。

p16
とにかく秋田孝季は書物より下のレベルの文書・伝承・言葉をすべて記録するという、記録のマニアというか天才というか、東日流外三郡誌はそういう形でできている。この本は、お寺の記録をそのままもらってきて、それに表紙を付けて「東日流外三部誌二百十巻」にしています。それで、これはわたしが求めていた『東日流外三郡誌」の寛政原本である。そのように確信しました。

p20
孝季は吉次やその妻となった妹のりくの協力で、各地のお寺・神社や旧家を回り、残っている文書類を書き写し始める。それが『東日流外三郡誌』である。寛政二年ぐらいから始めたようです。ところが、ほぼ完成したというときに火事にあう。秋田孝季がいた秋田の日和山という場所。わからないという話でしたが、場所もわたしは行って確かめました。ぐうぜん最初に尋ねた神社が「わたしのところが土崎です。」と、言われました。そこに秋田孝季がいたのですが、火事というのは怖いですね。とうぜん秋田孝季が書いた彪大な『東日流外三郡誌』は全部焼けてしまった。明治写本には、その時の様子が書かれた手紙が残っている。それによると、吉次が『東日流外三郡誌』を写したいと、つまり副本を作りたいと言ってきたときは、その必要はないと言って断った。ところが作っておいてもらって良かった。あまり熱心に言うので許したが、本当に良かった。わたしの作ったものがなくなった以上、もう副本しか残っていない。写していなかったら、ぜんぶなくなるところだった。同時にわたしは秋田の日和山におれないので、五所川原に移り住みたい。石塔山の神社の片隅にでもおらせてもらいたいとの手紙を送っています。石塔山は不便なところですから吉次の住んでいる飯詰の近くの大光院というお寺の離れを借りて住んで貰うことにした。そこへはりくが煮炊きしたものを運ぶことも可能だったでしょうね。

---------------------------------------------------------------------------
『古代に真実を求めて 古田史学論集第十三集』古田武彦「日本の未来―日本古代史論」

p53-54
だから天台文書というのは、何も秋田孝季や和田長三郎吉次が仏教に関心があったから、資料を集めたのではない。安日彦・長髄彦の出身地、さらに近畿天皇家で言えば祖先にあたる「始祖」の出身地としての揚子江の下流域の一帯。その浙江周辺の地理が書いてある。きれいに書いてあるのは天台山回りの地名。その地理・地名にかれらは関心があった。それに関心を持っていた和田長三郎吉次がその資料を手に入れた。だから天台の文書を貰ってきて、本当は写そうと思った。当のお寺は禅宗に代わっていて天台文書は要らない。持って行けということになった。それで持って行って表紙を付けた。他の例も『なかった』(第六号)にあげてあります。『東日流外三郡誌』には、そのような文書はたくさんあるから不思議に思わなかった。しかし見たことがない人は、中身と表紙はまったく違うから、これはおかしいと考えても不思議ではない。形だけを見れば一応もっともだ。しかし内容はぜんぜんそうではなかった。自分たちの祖先に当たる安日彦・長髄彦。その安日彦・長髄彦の始祖にあたる「佐(さる)」。その「佐(さる)」探しのために高砂族がいたという天台文書を手に入れようとした。しかし禅宗の寺で要らないと言われたから、貰ってきて表紙を付けた。こういう性質のものだった。

---------------------------------------------------------------------------
お寺の記録をそのままもらってきて、それに表紙を付けて「東日流外三部誌二百十巻」にしています」と言うが、第十一集p20で書いているように、副本は吉次らが書写したはずではないのか?ならば「何種類かのいくつもの筆跡で書かれています」などというのはオカシイ。日和山の火災で孝季手元の「原本」は焼失。吉次らが書写した「副本」が残ったのだから、何種類かのいくつもの筆跡で書かれています」というのは矛盾している。

『東日流外三郡誌 二百十巻』書影 多元的古代サイトへのリンク

スポンサーサイト



最終更新日 : 2020-09-11

Comment







管理者にだけ表示を許可