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2015-01-05 (Mon) 23:51

「裴清の道行き文」cyber_ek氏による理解


「九州王朝について」トピ、#47275で、cyber_ek氏が示した「裴清の道行き文」の理解に基づいて作図してみた。ソースは「最近の「反・九州王朝説」くんたちは、まったくレベルが低い」トピ、#223である。

引用する。
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A.度百濟行至竹島南望タン羅國經都斯麻國迥在大海中 又東至一支國又至竹斯國
B.又東至秦王國 其人同於華夏 以爲夷州疑不能明也
C.又經十餘國達於海岸 
D.自竹斯國以東皆附庸於イ妥
E.イ妥王遣小阿輩臺従數百人設儀仗鳴鼓角來迎
F.後十日又遣大禮哥多ヒ従二百余騎郊勞 既至彼都

Cは「達」なので移動経路ではない。
これを除くと、來迎はBの秦王國と読める。
しかし、來迎は一行が到着した港で行っただろうから、Aの竹斯國ではないか。
Fにより、十日後に迎賓館を出発し、ほどなく(半日の移動で?)、既至彼都。
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このような理解にたった場合、簡単に思い付く疑問点を2点挙げておく。

a.秦王国へは「又東至秦王國」と記されている。これを、どう理解するのか?cyber_ek氏は、「Cは「達」なので移動経路ではない」とするが、秦王国へは「又東至」なのだから、これは「移動経路」と理解しているのだろう。すると、「來迎」の行われたとする竹斯国から「ほどなく(半日の移動で?)」「至」るという「彼都」は、常識的に考えて、秦王国より竹斯国に近いということになろう。これでは、秦王国から竹斯国方向へ逆戻りすることになる。

b.秦王国を仮に筑豊あたりに比定するとすれば、それより「東」にあり「皆附庸於イ妥」する「十餘國」は、筑豊と豊後平野との間の山がちな地形に存在することになる。考えにくいことである。もちろん、「附庸」国として「東」にある「十餘國」のみを記すという理解も、甚だ不自然である。

このように、『隋書』「裴清の道行き文」を九州王朝説へのコースだと理解する立場に立って、実際の九州北半地図上にマッピングすると、一目瞭然、その不自然さが容易に理解出来る。

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最終更新日 : 2019-07-31

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